責任

正しさと過ち - BigLoveの日記の続き。


今日の昼休みに、たしか読売新聞を読んでいて。
先日のハーバード白熱教室 in Japanを紹介する記事の、一文を目にしたとき、ふとひらめいた。

オバマ大統領には、過去の原爆投下の責任があるか否か

・・・あ、”あるか否か”ではなく、
”責任があるという立場をとるべきか、とらないべきか”と問うと、答えが観えて来やすいぞ!


”責任がある””責任が無い”・・・どちらも、説得力のある論を立てることはできる。あるとも言えるし、無いとも言える。
たとえば、僕に、65年前の原爆投下を招いた責任はあるのか。
僕はたまたま日本に生まれただけ。しかも生まれる18年も前のことだ。僕自身が当時の日本を左右することなんて当然できないし、僕の親族だって・・・
いや、もし日本がアメリカに宣戦布告しなければ、または、もっとはやく講和を選んでいれば、原爆は投下されずに済んだだろう。客観的な情勢の把握よりも”空気”を重視し、誰も望まない結果を招いてしまう。それは決して過去の過ちではなく、いまの僕自身に、まだまだ色濃く存在する文化だろう。その愚かさを直視し、変えていく責任があるのではないか・・・
どちらの立場に立つこともできる。立場を選んだとたん、いくらでも理由を挙げることができる。
すると大切なのは、
理由の説得力ではなく、どちらの立場を選ぶべきか。

安らかに眠ってください
過ちは繰り返しませぬから

こう宣言したとたん、自分にも為すべきことがあると観えてくる。


あれは人類が招いた過ちだ。
被害にあわれた方々に、僕は有形・無形ともお世話になっている。
たとえばわかりやすいところで、下宿の大家さん、高校の体育の先生。そのはかりしれない痛みを体験された方々の優しさに、僕の人生は大きく影響を受けている。
冷戦、核実験、核の傘
いまの僕が、そしていまの社会が、このようなありかたなのは、原爆投下という出来事のせいでもあり、おかげでもある。
あんな悲しい出来事を、2度と繰り返させたくない。そのために、僕に出来ることはあるはずだ。


オバマ大統領が”私には、65年前の原爆投下に対して責任がある”という立場をとったなら。