引き揚げはこうして実現した

当時20歳だった女性が、現地をたどりながら体験を語る。それに、各方面への取材映像をからめた、大作ドキュメンタリー。


日本政府は当初、そのまま現地で生活をという方針。
ソビエトは、資材と日本兵を、本国へ連れ帰る。
共産党軍は、日本人技術者・医師・看護婦を使おうとする。のちには国民党軍も。
アメリカは・・・日本の影響を満州から排除すべく、また、国民党軍を送り込むべく、三角輸送を企画する。国民党軍を満州へ、日本人居留民を日本へ、日本在住の中国人・朝鮮人を本国へ。


それぞれの現場にたたずみ、語る女性の姿。67年前のことが、ありありと。
匪賊から機銃掃射を受けたりしながら、何日もかけて関東軍駐留地へ。すでにソビエト軍の陣地になってて、収容される。酷寒の地、食べ物も乏しく、幼い妹は亡くなる。日本人の墓をなでる女性。母は、直前に招集された父が戻るかもと、反対を押して村へと帰る。
このままでは看護婦として徴用される・・・と収容所を脱走して、4ヶ月かけて線路沿いに歩き都市へ。4ヶ月・・・
日本人会の奮闘。
建物が、とてもモダン。時代の先端を行っていたんだなぁ・・・そして語られる状況との、落差。
400人の孤児を引率して、引き揚げ第一船に乗るべく、港へ。「先生、先生って慕ってくれて、とてもかわいらしくて・・・」妹を亡くし、ははと別れ、辛い逃避行の果てだけに、きっと余計に。でも何人かは、乗船前に亡くなってしまう。葬った丘にたたずみ。涙も出ない感じ。そうだろうなぁ・・・。
1946/8/15に、帰還。3年後、お父さんがシベリア抑留から帰還。そしてお母さんは、中国人の妻として生き延び、1950年代に帰国。


満州在留者 150万人
105万人が、港から帰国
25万人が命を落とす