なんと対照的な人生だろう・・・

アメリカ人は成長の過程のどこかで、ディズニーのアニメと、1939年の『オズの魔法使い』と、そしてシャーリー・テンプルの映画に必ず接すると言われている

ミッキーマウスや白雪姫と同様、またはそれ以上に、アメリカ人が愛した二人。
シャーリー・テンプルと、ジュディ・ガーランド


1931年3歳の頃、ダンスと音楽に強い関心を示した彼女を、母親はメグリン・ダンス学校(Meglin's Dance School)に入学させる。(ちなみにジュディ・ガーランドもこの学校の卒業生である。)

「最初からシャーリー・テンプルには、映画のカメラに愛される物があった。輝く瞳と、巻き毛と、魔法のような存在感と、溢れる魅力―そして驚くべき才能である。」[9]。大人のプロのダンサーでも難しいステップを楽々と踊れ、正確な音程とリズムで難しい曲が歌え、気難しい批評家も唸らせるような絶妙な間合いで台詞が言えて自然な演技が出来る5~6歳の子役は1930年代当時一人もいなかったし、その後、75年が経っても、幼稚園児の年齢でそれだけのことができる者は未だに一人も現れていない。

シャーリー・テンプルビル・ロビンソンは、アメリカの歴史上初めての黒人と白人のダンス・ペアであった。彼女は、共演した相手の中で、ビル・ロビンソンが最も好きだったと言っている。


「ガーランド」はあるボードビリアンが彼女たち姉妹を評して「ガーランド(花輪の意味)のようだ」と言ったことから付けたと言われている。

20世紀前半の、アメリカのポピュラー音楽の歴史は、黒人音楽を白人が受容していく歴史であったといえる。当時の大物白人男性歌手で黒人的な発声を最初に大幅に取り入れたのは、アル・ジョルソンとエディ・キャンターであるが、ジュディ・ガーランドは、最初に大幅に黒人的な発声を取り入れた白人女性のミュージカル・スターであった。


天賦の才能に恵まれ、若くして大スターになった二人の少女。




二人は、大きく違う人生を歩む。

1939年にミュージカル『オズの魔法使』で、大ブレイクする。当初『オズの魔法使』のドロシー役は、人気子役だったシャーリー・テンプルが演じるはずであったが、映画会社間でトラブルになったため、代役としてジュディが急遽演じることになった。結果『オズの魔法使』はジュディの才能を大々的に世に知らしめるものとなったが、一方で余りにも人気が出たため彼女のスケジュールは過密となってしまい、この映画の公開直後から睡眠薬(セコナル)と覚醒剤アンフェタミン)を常用するようになる。(現在から見ると信じられないことだが、当時は睡眠薬覚醒剤も、害が十分に分かっておらず、MGM社はセコナルとアンフェタミンジュディ・ガーランドに服用するよう勧めていたのである。) 『オズの魔法使』の主人公ドロシー役でアカデミー特別賞(Academy Juvenile Award)を受賞する。

MGM映画の大作に次々と主演するようになり、全盛期を迎える。しかし、一見清純で明るく健康そうな表面的なイメージとは裏腹に、神経症と薬物中毒が進行していた。やがて1940年代の終わりに近づく頃になると、神経症と薬物中毒による精神の不安定が仕事にも影響するようになり、スタジオへの遅刻や出勤拒否を繰り返すようになる。

○1941年、ジュディ・ガーランドは19歳で作曲家のデヴィッド・ローズと結婚した。MGMはその年の4月に行われたディアナ・ダービンの結婚式にならって彼らの結婚式を一大イベントにしようと目論んだが、それを嫌った二人は映画「ブロード・ウェイ」の撮影中に抜け出しラスベガスでさっさと結婚してしまった。MGMの総帥、ルイス・B・メイヤーは怒り狂った。


○彼らの“静か過ぎる結婚式”が遠因となったのかもしれない。ジュディ は1942年に最初の子供を身ごもったがMGMは次回作「フォー・ミイ・フォー ・マイ・ギャル」の撮影に差し支えるという理由で彼女に中絶を命じた。ジ ュディはやむなく当時のカリフォルニア州で違法だった堕胎手術を受けた。 ひどい話だ。

享年は47歳であったが、長年にわたる薬物・アルコール中毒と荒淫の結果、遺体は老人のような有様であったという。

映画界に入った後は、後年まで母親のガートルードはぴったり娘につきそい、「映画界の悪い影響」を受けないように保護した[15]。フォックス・フィルム社も同じく保護が必要だという意見で、撮影所内に彼女専用の家と、専用のおもちゃと、専用の家庭教師を用意した。そのような環境において明るく品行方正に育っていった[16]。フォックス・フィルム社は、彼女が他の子役や裏方と遊ぶのを禁止していた。法律上1日4時間しか撮影に使えなかったので、その間は仕事に専念させたいという理由だった。また、西部劇スターのウィル・ロジャーズが事故死した後では、フォックス・フィルム社の命運がシャーリー・テンプル一人の肩にかかっていたので、他の子役や裏方と遊んでいるうちに病気や怪我をすることを非常に恐れていた。彼女の成功をねたんだ、他の子役の母親が、顔に硫酸をかけようとしたり、毒入りのキャンディを送りつけた事件が起きてからはなおさらであった。同時に、他の早熟な子役から悪い影響をうけて、品行方正な子供というイメージに傷がつくのを恐れていた。撮影所で、4時間撮影の仕事をし、3時間勉強し、昼休みに1時間をかけた。昼休みに名士たちの訪問がある場合もしばしばだった。毎日4-5時ごろ帰宅し、いつも夕食まで近所の普通の子供たちと遊んでいた。彼女と最も親しかったのはナンシー・メジャーズであった。夕食後は普通の子供がやるように遊んだり、ラジオを聴いたり、家のお手伝いをしたりしていた。寝る前に次の日の撮影の準備をした。保護策をとらなかったMGMでは子役スターたち(ジュディ・ガーランドミッキー・ルーニーエリザベス・テイラー等)が非常に早い時期にセックスと酒を覚えてしまい、大人になってからも精神的に不安定で結婚と離婚を何度も繰り返すようになったことを考えると、フォックスの処置は賢明だったと言える。

彼女以後の子役の少女は、マーガレット・オブライエンやナタリー・ウッドやテータム・オニールのようにどこかに影のある「大人のような子ども」であったり、ブルック・シールズジョディ・フォスターのように妖艶さを売り物にしたりするようになっていく。しかしシャーリー・テンプルは、どこまでも純粋で無邪気で明るい、子どもらしい子どもを演じた20世紀のアメリカ映画で唯一の大物の少女スターであった[18]。

ほとんどの子役スターは、ハリウッドの子役時代に対して何らかの心の傷を抱えている。しかしシャーリーは、ハリウッドという危険な虎の穴に入って、その体験を楽しみ、けろりとして無傷で出てきたほとんど唯一の存在であった。彼女は次のように、自分を誇ることなく慎ましく語っている。「私は、最高の子供時代を過ごした。神話とか小説とかの素晴らしい物語を読んでもらう代わりに、私は実際に物語の中で生きることが出来たのだった。母は私が幼いとき、雑誌とか新聞の中の私についての記事が私の目に触れないようにしていた。後になって、もし読みたいなら読んでもいいことになったのだが、二三の記事を読んで、読むのは止めてしまった。確かに私についての記事なのだが、他の人が作り上げたシャーリー・テンプルについての考えなのであってたいていは理想化してあった。私はプリンセスではないし女神でもない。なりたいとも思わない。私は最高の人生を送ってきたし、幸運だった。私は映画で人々に喜びをもたらしたと思いたい。しかし、私にチャンスがまわってきたのは、運命つまりタイミングのいたずらだった。」


とはいえ、シャーリー・テンプルさんも、すべてが順調だったわけではなかったんだなぁ・・・

ウェストレイクを卒業後17歳の時に、シカゴの大手食品加工会社の社長の孫であった、同級生の兄の美男のジョン・エイガー(John Agar)軍曹と結婚する。彼は後に脇役俳優になる。(結婚が決まるとアメリカ議会では祝福の演説がなされた。この結婚は、第二次世界大戦にまつわるさまざまな出来事と共に、1945年において最も多く報道された事柄であった。)一児をもうけた。しかし彼は人格に問題があり、連日家を空けては酒に溺れ浮気をし、家に戻ると彼女に罵言を浴びせ続けた。[47]。
(中略)
1950年にシャーリー・テンプルはジョン・エイガーと離婚することになった。(彼はその後も素行が悪く、離婚後数年たったころ常習的な飲酒運転で数ヶ月牢屋に入ることになる。)>