古代山陽道

道路の盛衰・変遷もまた、システムがどう変遷するか示唆してくれる一例として、とても興味があります。
びっくりしました。ローマ帝国や、秦の始皇帝同様、日本も律令時代には、かなり直線的で幅の広い街道を整備したんですね・・・。

「駅制」(駅路)は、中央と地方の情報伝達を目的に設けられた緊急通信制度で、目的地に最短距離で到達するように直線的路線をとって計画的に敷設され、幅10メートル前後の大道であった。

幅10メートル!・・・自動車用に使えそうですよね。現代の高速道路に相当するような道だったようで、

古代駅路と高速道路の設定ルートや、駅家とインターチェンジの設定位置が、ほぼ同一となっている事例も多く見られる。

中央集権化の手段として、重要だったのでしょう。


やがて、地方がそれぞれ力をつけてくるからなのか、それとも中央が厳しく統制する必要がなくなるからなのか、衰退・簡易化していきます。
維持コストに見合う便益がなくなったのでしょうね。

律令制度の衰退とともに交通制度は乱れていった。以後は駅路に沿う郡に伝馬を置くことを原則としたらしい。

奈良時代最末期から平安時代初期にかけて、行政改革が精力的に行われたが、駅伝制においても駅家や駅馬、伝馬の削減などが実施され、伝路は次第に駅路へ統合されていくこととなった。ただし、地域の実情と無関係に設置された駅路は次第に利用されることが少なくなり、従来の伝路を駅路として取り扱うことが多くなった。これに伴い、従来の駅路は廃絶していき、存続したとしても6m幅に狭められることが多かった(広い幅員の道路を維持管理することには大きな負担が伴うからである)。

大量の物資を輸送するのは水運を利用する方が効率的であり、次第に瀬戸内海を経由する水運の比重が高まっていった。やがて律令制の納税、軍制の形骸化に呼応するかのように、駅伝制は急速な衰退をみせ、10世紀後期または11世紀初頭には、名実共に駅伝制も駅路も廃絶した。

かくして、以後1000年近く・・・ほんの50年ちょっと前まで、日本にここまで立派な街道は現われなかった、ということになりますね。
島国ゆえに、物資運搬に船を活用することが容易で、荷車のニーズが低かったのかもなぁ。
軍隊も、山野が多いゆえに、車輪はあまり使わなかったのかも。

従前、日本の古代道路は、細々とした小径・けもの道だと考えられてきた。1970年に古代日本史研究者の岸俊男が、上ツ道・中ツ道・下ツ道などが直線的な計画道路であったことを発表し、古代道路の研究が一気に注目を集め始めた。

あ、これ覚えてる!
以後、急速に研究が進み、

1970年代には、多くの研究者が古代道路の調査研究に傾注し、直線的な計画道路が全国に及ぶこと、広い幅員を持つことなどが判明していった。1980年代後半には、全国的に古代道路の発掘調査が行われ、古代道路が考古学的な裏付けを持つとともに、その実態も明らかとなっていった。1990年代には、古代道路が直線的で大規模な計画道路だったことは常識となり、多くの地域で、郷土史の一環として古代道路の路線復元などが試みられるなど、詳細な研究結果が発表されていった。

なるほど、だから僕は、こんなに立派な計画道路だったとは知らなかったんだ。歴史の教科書には、まだ載ってなかったんだなぁ。

http://www.geog.or.jp/journal/back/pdf110-1/115-120.pdf
http://www2e.biglobe.ne.jp/~fujimoto/miti/