個と道

 もともと、生物に寿命などありませんでした。栄養がふんだんにあって環境がよければ、細菌などの原始的な生物は際限なく増殖します。しかし、細菌に「自他」の区別はありませんから寿命がない、といえます。「性」をもつ私たちは、個人のかけがえのなさと多様性を手に入れましたが、その代償として、個体の死を運命づけられました。死は、私たち生物が進化のなかで、「自ら創造した」ものなのです。

なるほど・・・。

良識はこの世で最も公平に配分されているものである。(中略)
われわれの意見がまちまちであるのは、われわれのうちのある者が他の者よりもより多く理性を持つから起こるのではなく、ただわれわれが自分の考えをいろいろちがった途によって導き、また考えていることが同一のことではない、ということから起こる(略)
よい精神を持つというだけでは十分ではないのであって、たいせつなことは精神をよく用いること
デカルト方法序説

アメリカは民主主義の国だが、フランスは共和主義の国である」(中略)
まったくなんの前提もなく、国民にある政策の賛否を問うならば、国民は目先の個人的、感情的な利害(多くは金銭)から賛否を決することになる。現在、世界で支配的なアメリカ型の民主主義(日本はその優等生だ!)はこのようなもので、短期的利害に走り、長期的な判断を下すことができない。対するに、フランス型の共和主義とは目先の利害ではない、長期的・全体的な利害の元に判断を下すことのできる国民によって政策の賛否が決せられるものである、うんぬん。
だが、そんな理想的な判断力をもった国民など存在するものなのか?少なくとも可能態としては存在しうる。いかにして?
教育によって。

(中略)

いまこそ我が国で問われなければならないのは、最も平等に与えられているはずの良識の使い方を教えることなく、知識だけを詰め込もうとする日本の教育の本質なのである。
毎日新聞朝刊 引用句辞典不朽版 良識とは?<民主主義国・日本がデカルトに学ぶべきこと> 鹿島茂さん

うーん、フランスの世論って、しばしばエゴに基づいていて、それが正義の仮面をかぶっているだけにたちが悪いように、僕には観えるけれど・・・
それはさておき、この論そのものの筋は通っている・と想う。


私とあなたを、別々の存在として分けることで、”死”が生まれた。
”誤解”や”意見の相違”も生まれた。
”かけがえの無さ”と”多様性”も生まれた。


多様性のあるわたしたちが、それぞれに良識に基づいて判断をし、意見を述べる。
ひとりでは見えなかったこと・気づけなかったこと・見つけられなかったことが、発見できる。
この、ひとりひとりのかけがえの無さが、カントが理性に尊敬を払うことに、道徳の根源を見出した理由なんだろうなぁ。
身体を構成する細胞は、身体全体の福祉のために、手段や道具として扱うけれど、
社会を構成する人間は、社会全体の福祉のために、手段や道具として扱うべきではない。かけがえのない理性と多様性を持つから。
・・・ってことなのだろうか。


うーん、ちょっぴり納得しきらない。
クリントン元大統領の”誤解を招く真実”に、たいした意味があると想えないのと同様に。


ほんとに”良心”に基づいて行動しているのか。
私利私欲に基づいた判断を、無意識のうちに、良心で糊塗してはいないか。
その区別は、きちんとつけられるのか。
うーん・・・。


顧客満足という考え方を提示した経営学者・ドラッカーさんは、

企業の目的は、利益の追求ではない。顧客の創造である

と言う。
利益を挙げるために、他人を大切にするひとって、どこかうさんくさい。
いずれ化けの皮がはがれて、信頼を失うことだろう。
企業もおんなじ。
お客さんを大切にし続けるために、利益を確保する企業なら、
信頼を得て、ファンを増やすだろう。
そして、大切にする方向性が、まっとうだったら、発展し続け、社会に貢献するだろう。
そのまっとうさは、日々、移ろっていく。ならば、固定された教条では書き表せない。感じ方や観方をトレーニングし、磨くことならできそう。


結果を見れば、そこに、ほんとの意図が現れる。
現れた結果から、”道”を感じて、己の在り方を沿わせる。
”良心”とか、”理性”って、もしかしたら、そういうことなのかもしれない。
定言命法”って、素晴らしいアドリブソロを決めた音楽家の「だって、そうなんだもん。この音が、あの瞬間にぴったりなんだもん。」なのかもしれない。

老猫は妙術を説く前に、若い猫たちに問いかけます。「今までどんな修行を積んできたのか」と。

黒猫が「私は身体を鍛えて、どんな狭い場所でも潜り抜け、軽業を磨いています」

→老猫「そなたがやっているのは、所作だけだ。狙う心があるようではいかん。そもそも技に頼るようではな。才は心の用であるといっても、道に基づかず、ただ巧みを専らとするようでは、偽りの道じゃ。」

虎毛の猫が「私は、武術とは気然を貴ぶことだと思います。だから私は「気」を練る修練を続けています。気合でもって敵を倒し、声にしたがい、響きに応じて、鼠を左右につけ、変化にも応じるのに万全を期すのです。しかし、あの鼠には太刀打ちできませんでした。」

→老猫「そなたは、気の勢いを借りているにすぎない。相手もまた生きるか死ぬかを賭けているのだから、気合で勝つというわけにもいくまい。まさに窮鼠猫を噛む時にどう対処するか、ということじゃよ。まだまだ修行が足りぬな。」

今度は年長の灰色の猫が「おっしゃるとおりで、「気」には形があります。私は気の流れをたとえ僅かなものでも読み取り、「心」を練ることに努めてきました。勢いではなく、相手と争わず、お互いに和して、かといって戻ることもない。その私でも、あの鼠には敵いませんでした。」

→老猫「そなたの言っている「和」は、自然な和ではないな。頭で考えて「和」を意識しているのだから、「気」が濁ってしまい、気を感じることもできなくなってしまう。無心であるというのは、そういうものではない。それでは妙手は生まれない。ただ無心に、自然に応じることをすればよいのだ。」

・・・すごい爺さんです!!
猫にしておくのが惜しいほどですよ。

老猫が言います。

「とはいえ、道には極まるところはないから、私の言葉を以って至極の境地などというわけでもないのだよ。私がまだ幼いころ、近くにすばらしい方がいらっしゃった。日がな一日眠っていて、気勢など感じられるものでもなく、まるで木彫りの猫のようであった。だれもあの方が鼠を捕まえたことを見たことがない。しかし、あの方の周りには一匹たりとも鼠がいなかった。あの方が場所を変えても、また鼠が全くよりつかない。神武にして不殺、あの境地には、私は達してはいないのだよ。」

理想は、この境地だなぁ。