冷静な頭脳と温かい心

沈まぬ太陽”の主人公は、小倉寛太郎さんという方が、モデルのひとりのようです。
母校の東京大学での講演録を見つけました。
戦時中の勤労奉仕の体験から”権力を持った人は、ズルをする”という不信の物語を強く抱いてしまわれたが故に、敵対関係を強固にしてしまわれたんじゃないかなぁ・・・というふうにも、僕には思えました。でも、それが時代だったのかもしれない。いや、ほんとにそれだけ腐り果てた組織だったのかもしれない。


できれば僕は、ずるいことを企み、陰謀を巡らせている人からさえも、無我の境地を引き出すようなひとでありたい。
熊ん蜂とこころ通わせた時のように、こちらが、ただ在れば、相手も、そうなる。
・・・でも実際は、ついついいろんな物語を、大抵の瞬間、脳裏に走らせてしまっているわけですが(^^;


講演録の中で、こういった言葉たちがこころにとまりました。

若い諸君に申し上げたい、世の中にいろんな肩書きがありますよね、何とか会社の取り締まり課長だとか、総理大臣とか、そういう団体の肩書きは自分の本来のものだと思わない方がいい。これは、結婚式の時の仮衣装だと思った方がいい。その時はきているけど、時期がきたらぬいで返すんです。それがわからないのがね、しつこく天下りするんです。前の仮衣装より落ちるが、ないよりいいやといい、なんとか公団の取締役になったりね。天下り紹介するのが官房長の仕事の大半だと言われているけど、官房長だっていつまでもいいポストはくれない、段々段々格落ちにする。結局自前の衣装がないままにおしまいになっちゃうというのが組織で働く者の悲劇なんです。くれぐれも仮衣装を自分のものだと思わないこと、そして仮衣装を脱いでも、着る自前の衣装をお持ちになることを、今からこころがけるよう申し上げたい。

異文化への理解しないととんでもない思い違いがおきる。私はナイロビに行きまして、一番先に、人を雇わなければならないので、メッセーンジャーボーイを雇ったんです。この人はよく働くとってもいい男だったんです。ただ一つ不満なことがあったんです。事務所に早くから出て、新聞を整理して、書類を整理して、電報も整理してやっているんですが、私がいっても挨拶をしないんです。私、たまりかねましてね、2週間くらい立って、
「私はお前さんの働きぶりに満足しているが、たった一つ考えてもらいたいことあるんだ。」
「何ですか」
「俺が朝出勤してきたら、あいさつしろよ」
「あら、していいんですか」
「どうしてだ」
「私の部族では、じょうじょう(?)から声をかけられるまで声を発しちゃいけないんだ」という。
“はーそういえば、日本の江戸時代でもお殿様から声がかけられるまで、こっちが声だすのは失礼というのがあったなあ”「ごめんごめん。人が先に入ってきたら、グッドモーニングとかグッドアフタヌーンとかいえ、言った方が我々のコミュニティでは、少なくとも日本人の社会でもイギリス人の社会でも礼にかなっている」
「そうですか、ならばわかりました」。


 これ聞かないでいくと、大変なことになりますよね。同じようなことがたくさんあります。それから、文化が違って、向こうの行動が理解できないと、人間って、必ずしも善意にはとらないんですよ。悪意にとっちゃうことが多いんですね。その点で、異文化に対する理解は努力しなければいけない。

「動物もおもしろかったけど、マサイもおもしろかった」という。
「どうしてだ」、
「マサイはいまでも世襲制の酋長がいるんですね」
「いるよ、でも日本だっているじゃない」
「日本には……。いました」(笑い)。

どれも、物語や思い込みを手放すための、実践的ヒントですね。

必要なことは、冷静な頭脳と温かい心。これ逆の人がたくさんいるんですよね(笑い)。だけどそうでないようにしたい