混じる/交じる・・・意識のベクトルと「ポルト・パラディーソ・ウォーターカーニバル・エテールノ!」

最近は植林の際に、複数の種類の木をまぜて植えることが増えているといいます。
校閲として悩まされるのが、木を「まぜて」植えるのか、それとも「交ぜて」植えるのかという問題です。
毎日新聞用語集では、「混」は「とけ会うまじり方」、「交」は「とけ会わないまじり方」と説明されています。
毎日新聞朝刊 校閲インサイド 読めば 読むほど 混ぜる/交ぜる

以下、用語集に従うと、漢語で「混植」「混在」と書く場合でも、「交ぜる」になる・・・と続く。


毎日新聞用語集を離れ・・・僕のイメージでは。
「混じる」は、AとBの意識のベクトルが絡み合って、ひとつのもの・グループ・チームとなる感じ。
「交じる」は、AとBの意識のベクトルが向かい合って、交流する感じ。


で、ポルト・パラディーソ・ウォーターカーニバルのことを想い出しました。
あのショー、特にカフェポルトフィーノ前からイルポスティーノ前にかけてが特徴的でした。
海を向いてショーを鑑賞していた・・・つもりだったのが、いきなり背後に出演者がやってくる。どっちを観たらいいのやら・・・なぁんてあたふたしてるうちに、カーニバルに巻き込まれちゃう。
出演者のエリアと、観客席とが、別れてはいるものの錯綜している。だから、意識のベクトルが、攪拌されちゃうんです。
とはいえ、出演者と観客が「混ざり合って」カーニバルの参加者となり、ひとつのチームになる・・・ことはまれですが、観客が出演者を一方的に受身で「鑑賞」するのではなく、出演者と観客との「交流」は生まれていました。特に、途中の大幅リニューアルで大玉のやりとりが始まって以来。


更に「エテールノ!」バージョンでは。
ハーバー全域に出演者が散らばり、マーブル模様のように観客と混ざり合いました。場所によっては、観客のすぐ背後、もはや観客席のなかに入り込んでしまう。
そして、観客とおなじ方向・・・ハーバーの中央を向いて、観客とともに、ミッキーたちの船出を見送ります。
ひとつのチームとなる。意識のベクトルを、ともにハーバー中央に向け、ともにひとつのショーを展開する。


「熱烈すぎるファン」の迷惑行為が話題にのぼることが、ままあります。
私自身は、あまり目撃したり、巻き込まれたりしないんですが・・・。
意識のベクトルが、「ショーと自分」、「出演者と自分」の間だけにとどまっていて、それを濃密にすることだけに夢中になってしまってる・・・ひとき、しばしば見かけます。
逆に、そういう欲望を必死で抑圧してるひとも。


私たちは、実は「ミッキー」や、あのハンサムな「ストーリーテラー」さんにあこがれているわけではない。この素敵な「ショー」が私たちを感動させてくれているわけではない。
私たち自身の中にある「ミッキー」や「ストーリーテラー」さんのイメージや、「ショー」から読み取る美しさとメッセージに、夢中になっている。
すべて、私たち自身のなかにある「理想像」や「メッセージ」や「美しさ」などなどなど・・・なんです。それを外部化してるだけ。


嫌いなもの、望ましくない出来事も、そう。
友人の記事、http://blog.so-net.ne.jp/tennen_nasubi/2006-05-05 が一例です。




外部化することは、有意義なんです。
時には一対一で向き合い、時にはひたすら見つめ、時には交流し、時にはともにチームを組み・・・・・いろんなベクトルに組み替え、向かい合うことで、実は自分の内面や、目指すものへの理解が深まる。
「自分にとって本当に大切なもの」が見えてくる。
ところが、執着して、ひとつの向き合い方に固定してしまうと、かえって自己理解の大きな妨げとなる。「熱烈すぎるファン」って、そういう状態に嵌っているのではないでしょうか。


ポルト・パラディーソ・ウォーターカーニバル」というショーそのものが、この「外部化し、攪拌し、深化する」プロセスをストーリー化した「冒険譚」の形式を採っています。
いろんな優れた才能を結集し、高価な財貨を蓄え、住み慣れた故郷を出発する。
どこか外部に、パラダイスを求めて。
でも、外部に求めているうちは、パラダイスは一向に見つかりません。
嵐に見舞われる。結果、執着や思い込みを手放し、自ずと余計なものをそぎ落とすことになる。
そこで聞こえる「海の声」・・・実は自分自身の心の声です。
そして「本当に大切なもの」に気づくことになる。
気づいたとたん、嵐は止み、実はパラダイスは今、ここにあることを知る。


神話や御伽噺や小説や映画。太古から繰り返し、こういうストーリーが語られてきました。
なぜか。そこに真実が語られているからです。
執着は、得てして「自己理解なんてしたくない、ずぅっと現状で居たい」という防衛本能から生まれます。結果、歩むべき道・自分のこころ深い望み・「本当に大切なもの」との齟齬は、どんどん大きくなる。だから必ず破局「嵐」がやって来ます。
実はそれは、強制的に意識のベクトルを攪拌する機会。執着を離れ、「本当に大切なもの」を体験し、見出す機会・・・にすることもできれば、それでもなお執着を捨てず、波間に沈んでいくこともできる。


あのショー、「ポルト・パラディーソ・ウォーターカーニバル」に惹かれたみなさんは、このプロセスの大切さを、無意識で深く知っています。
冒険とは、実は自分自身の内面への旅。