正しさと過ち

白熱教室inJapanの問いのひとつ

オバマ大統領は、原爆投下を謝罪すべきか否か

おおよそひとのなすこと、みな、なにかしら過ちはあるんじゃなかろうか。
望ましくない結果が生じたのだとしたら、かかわったひとみな、それぞれ「ああしていれば、回避できたのではないか」という学びは、あるんじゃなかろうか。
変えられなかったこともあるだろう。そして、変えることができたけれどやらなかったことも、きっとある。
謝罪とは、「自分には、その望ましくない結果を避ける力があった。」と宣言することだと、言えるのかもしれない。私はパワフルだ・という宣言だと。


では、なぜ私たちは、そんなパワフルな宣言を、ためらうのだろう。
「そうだ、お前のせいだ。俺にできることはなかった。」と逃げられ、よりよい未来をつくる責任を、自分ひとりが負わなければならなくなる、という恐怖が、まずひとつ。
そのてまえに、自分が望ましくない結果を引き起こした・という位置に立つしんどさ自体に耐えられない、というのがあるかもしれない。重大なことであればあるほど。


ほんとうに、望まない結果を二度と産みたくないなら。
関わる人みなが、それぞれに謝罪しあえばいい。

安らかに眠ってください。過ちは繰り返しませぬから


もしかしたら、キリスト教の”原罪”や告解って、
このあたりのこと・・・正しさを手放し、誤ちを見出し、改めよ・みたいなことを、
表現しているのかもなぁ。