抑制と開放 コントロールと突破 そして創造

国母選手が、成田を出発するとき、選手団のユニフォームを着崩していたことが問題視されているらしい。
写真で見る限り、なかなかカッコいいじゃないか!
でも、日々中学生・高校生に「制服はきちんと着ろ!」と指導してるひとたちにとっては、頭が痛い格好なのかもね。


規律を、メダル獲得数よりも重視するなら、それもよかろう。
その規律とやらも、時代と共にどんどん変わっているわけだが・・・もしも東京オリンピックの開会式で、選手があっちこっち眺めながら、思い思いに歩いたなら、”だらしない!””国辱だ”と非難されたことだろう。


僕は、オリンピックって、基本的には選手個人のためのものだと想う。
素晴らしいアスリートを支援するために、国費をほんのちょっぴり支出しているだけ。
よしんば国威発揚だとしても、選手が力を存分に発揮できる環境を用意することが重要だろう。


スノーボードやった事ない俺が言うのもなんなんだけど、
スノーボードハーフパイプって、”自己表現”のスポーツだろう?
相撲に伝統精神があるというなら、スノボにだって、スピリッツがあるだろう。はみ出してなんぼ、ガッツを観せてなんぼ。
国母選手も、かましてやればよかったのに。
「ユニフォームをかっちり着るのは、俺じゃない。ハーフパイプは、俺らしさを思いっきり表現してこそ勝てるスポーツだ」
・・・わからず屋と闘っても、しょうがないか。でも、そうしていい子ちゃんしちゃうから、ストイック系な種目は強くても、モーグルでなかなかメダルとれないんじゃぁないのかなぁ。


まぁなんだ、
枠があるから、はまれもするし、はみ出せもするわけで。



この件で、印象に残った記事を二つ。

不愉快に思ったり、だらしないと思ったりというのはその人の価値観であり、誰かの価値観にあわないから処分するというのは、私的な集まりではともかく、オリンピック代表団のような公の場では行えないはずだ。公の場での処分は、明確なルールに違反しているときでなければいけない。

正論。
”公的な場だ”と主張するならなおさらのこと、公的なルールと、自分個人の価値観とを、区別しなきゃ。


そのルールの決まり方についても、下記記事が示唆してる。

 「サギング」、あるいは「サギー・パンツ」と呼ばれるこのファッション、米国で激しい論争の対象にもなっている。ここ数年、公序良俗を乱すとして、罰金刑や禁固刑を科す規制条例が一部の市で施行される動きが相次いだ。ところが逮捕された若者が裁判に訴えるなどした結果、こうした条例は表現の自由を保障した憲法に違反するとの判決も出始めた。


 人々が、かんかんがくがくの議論を戦わせる理由のひとつは、「腰パン」が、人種問題や世代対立とからんだ「反抗」や「挑戦」のメッセージを含んだファッションだからだろう。
(中略)
 反省したならそれでいい。反省していないならそれでもいい。自分を曲げたくないのなら、主張すればいい。一時的には大バッシングを浴びようが、必ず耳を傾ける人が現れ、議論につながるはずだ。


 だがこの日の会見を見る限り、「イヤイヤながら反省の弁を述べているのでは」との思いをぬぐえなかった。「国母ファッションを応援している人もいるはずだが」との問いには、ずいぶんと長い間を取ったあげく、「何ともいえないです」とポツリ…。


 たかが「腰パン」だが、その論争が憲法判断まで行き着く国もある。国母選手の熱い主張を聞きたかった。

同感。
でもまぁ、会見で自己主張して、その対応に無駄なエネルギーを使わされるより、競技に集中したいんだろうなぁ・・・。
それでいいやね、ハーフパイプこそが、国母さんの活躍の場なんだから。