個性は、無我の境地にこそ・かも

トップランナーを観てて、あらためて思った。
ひとの本質って、”無我の境地”でこそ、我知らずたちのぼるものなんじゃなかろうか。


一週間ほど前、新聞に
”あのひとってこういう人だ・・・と決めてしまうけれど、実はパーソナリティーって固定したものじゃない。一つじゃない。
どのひとと向かい合ってるか、どの役割をしているか、どんな状況かで、全部違う。
同じ状況でも、昨日と今日とでは、また違う”
みたいなことを説いたコラムがあって。
もう一度読みたくて検索してたら、こんな記事に出会った。

 見田 でも、今やそのアイデンティティーを求める心がむしろ人間を不自由にしている気がするんですよ。

 福岡 アイデンティティーは複数持てるという言い方も最近はされているようですが。

 見田 もちろん複数持つ方が一つしか持たないよりずっといい。でも全然持たない方がもっといい。というのも、愛がアイデンティティーによって限定されてしまう時、人はいくらでも恐ろしいことができるからです。

まったく、そのとおりだと思う。
この日記に検索をかけて、読み返してみた。
「アイデンティティ」の検索結果 - BigLoveの日記
2005年頃に、かなりたくさんの記事を書いてる。
以後、年を経るに連れ、いろんな事例に触れてきたんだなぁ・・・。だんだんはっきり見えてきたみたい。