毎日新聞夕刊 新幸福論 玄侑宗久さん ”未来に目を向けすぎず、今に無心で立つ”

なりゆき→しあわせ

万葉集日本書紀で一番多く使われているのは「なる」という言葉だそうです。実がなる、仏になる。なる、というのは我々の合理性でとらえられない変化ですね。稲が生るというのも、おがみたいほどすごいことなので「おいなりさま」という言葉をつくった。

なるほど、それでおいなりさまと食べ物とは結びつけて信仰されてるんだ・・・。

時の変化とともに、思わぬ状況になる。予断を持たず、なりゆきをよく見る。大切なのは、新たに出てきたことに、どう仕合わせるかです。
−仕合わせる、ですか。
刀を持って向き合っていると想像してください。相手がどう出るかを予測しているときと、予測していないときはどちらが強いでしょう。
何も予測していなければ、相手の動きに即応じられる。予測していると、予測と違った行動に出られたら、戸惑いが生まれ、すきにつながる。

なるほどそう言われてみれば、幸福感というのは、うまく仕合わせているかどうかのバロメーターかも。


なりゆきに、しっくり仕合わせてるときって、深い幸福感がある。
夕日が沈んだあとの、うつろいゆく空のグラデーションを眺めているとき。
2000人の観衆が、ふわぁっと総立ちになったとき。
うなぎや出目金が、手にぽこんと乗ってくれてるとき。
もののあはれを感じているとき。
テニスで、一度だけ「ゾーン」に入った時もそうだった。砂の浮いたクレーコート・強い横風。でも、僕がどう打ち、どう跳ねて、彼がどう打ち返し、どう変化して、僕がどう打ち返し、更に彼がどう打ち返すのか、3〜4打先まではっきりわかる。双方全力を尽くしながら、いつまでも・いくらでも、ストロークが続けられる。風の変化やイレギュラーに、即対応しちゃう。あの楽しさといったら!
徳大寺有恒さんが、クラシックをかけながら車を運転していたとき、流れゆく景色と、気持ちと、曲と、車の操縦とが実にしっくり、ちょうどぴったりきて、その陶酔感が凄かったそうな。これも仕合わせだろう。
ロス・トレス・アミーゴスの演奏に合わせてマラカスをふらせていただいたとき、相互の音をしっかり感じ取りながら、瞬時に次の音を生み出す、あの感覚。僕が一拍打ちそこねると、瞬時にそのまま沿ってくれる。ギターソロが興に乗って走ったりもたったりすると、それにぴったり沿っていく。レッド・ツェッペリンの、あのスリリングな演奏のように。
仕合わせる、幸せ。


そして、幸福感が薄いときって、自然のながれ・摂理・なりゆきから、はずれかけていたり、切り離されちゃってる。

”しあわせ”という言葉の変遷

奈良時代に「為合」という字をあてたのが始まりです。天が相手ですから、ほとんど運命の意味でした。(中略)
室町時代のころには、「仕合」という文字になります。人間対人間の話になってきた。相手の人間に対して、どうしあわせるか。そして明治時代以降、英語のハピネスを幸福と訳し、幸せと呼ぶようになった。

そして、玄侑さんはハピネスの特徴は、計量化できることだ・と説く。たとえば、お金の量・目的の場所までの距離・良いことが継続する長さ。
「いや、そんなことはないよ!」と反発を覚えたけれど、
でも実際、自分を振り返ってみたら。
多額なお金をもらったら・・・嬉しい。
目的地が予想より近かったら・・・嬉しい。
うれしいことが長く続いたら・・・嬉しい。
うーん、それが本質的な幸せと繋がっていないことがわかっていながら、でも、実際そうだ。


そのときの”嬉しい”って、しっくり仕合わせているときの幸福感とは、ちょっと違うみたいだ。
予想を超えたときの、嬉しさ。
刺激的だけれど、やがてそれが新しいあたりまえ・新しい予想線になって、慣れてしまう。


しっくり仕合わせているときって、無我の境地だ。思い込みからは、自由になっている。
予想を超えた時も、”予想”という思い込みからはずれている、その開放感が、似た”嬉しい”を呼び起こすのかもなぁ。

機心

便利で効率を上げるものができると、しあわせが増えると考えられている。ところが、ものが人の心を変えてしまうから、幸せを感じることはないんです。
手紙が通信手段だったとき、1週間は返事を待てました。ファクスが普及すると、翌日には返事がこないと、むっとしたり、どうしたんだろうと心配になる。パソコンのメールになったら、その日のうちに連絡がこないと我慢できない。携帯メールだったら、2時間が限度でしょうか。1週間待てた自分から、2時間も待てない自分に変質している。

そのとおりだなぁ・・・。


効率を上げる事自体は、ひとが地球をなるべく傷めずに生きていく上で、大切だと思ってきた。
効率を上げる手法を考えついたり、その実現に成功した時の嬉しさって、大きな意味で”仕合わせた”喜びのような気もする。
そうなのかもしれない。そうではないのかもしれない。

パーソナリティと不安と目標

人間は善も悪もあるし、状況の変化で揺らぐ複雑な存在です。(中略)
習慣的に出てくる自分に慣れてはいるでしょうが、それを本当の私だと思う必要はない。(中略)
どんな自分にもなれるのに、目標や計画を立て過ぎて、自然にまかせることをしないから、目標程度でおさまってしまう。(中略)
不安だからと求められて出てきた「先のこと」にどれほど意味があるのでしょう。
目標を持って生きることが、是とされすぎているのではないでしょうか。未来に目を向けすぎずに、今というときに、無心で立つことです。

達成する”嬉しさ”。
それが、大きな意味で”仕合わせた”よろこびのときもあるだろうし、
不安と闘い、やっつけたと錯覚しているだけのときもあるかもなぁ。


今というときに、無心で立つ。
なりゆきに、仕合わせる。
・・・これを心がけて生きていくうちに、心のコンパスの感度が上がってきそうだ。


TDRで遊ぶとき・コンサートや演劇を見るとき・散歩や買物をするとき。なるべく無心になって、こころのおもむくまま、直感に従って動くようにしている。ときには、計算上不合理・非効率と見える選択をすることもしばしば。すると、感じることも深くなるし、出会うべきことに出会える。これはかなり、”なりゆきに仕合わせる”境地に近いのかもしれない。
一方、生活の場や、仕事では、まだまだこの境地には遠いかも。それとも、近づきつつあるのかも。顧みれば、効率を上げることが、手段ではなく目的になっていることが、しばしばあったかも。それを今、手放しつつあるのかもしれない。