見えども観えず

秋雨前線は南に下がり、おだやかな晴れの一日。


勤務先からスカイツリーが、はっきりと観えていることに、いきなり気づく。
「あれ?あんなところに建築中の大きなビルが・・・いや、なんだか透けてるぞ!」
毎日のように眺めてる景色なのに、
しかも、”今日は富士山見えないかなぁ”と注視する方角なのに、
気づくまでは、目に入ってても見えていない。


そんな僕とは対極に、写真を撮るかのように、ありのまま記憶する能力を持つひとたちも居るそうな。例えば・・・

谷崎潤一郎 - 作家。名を知らぬ祇園の料亭で国文学者玉上琢弥と会った翌日、ある人から電話で昨日は祇園のどこだったかと訊かれ、「ちょっとお待ちください」と考え、玄関に入るとき一瞬仰ぎ見た軒灯に書かれた文字を思い出し、料亭の名前を正確に返答したことがある


会話なんかでも、僕は大意や、そのときなにを感じ・想ったかは記憶しているけれど、得てして細部は間違っていたりする。
人間皆、そんなもんだろう・・・なんて想っていたら、
あるとき、会話の相手は、一言一句、正確に覚えていて、すっかり驚いてしまった。


僕の記憶は、かなり主観的で、ありのままからはかなり遠い。
スナップショットのように正確な記憶をする能力に長けているひとからは、相当いい加減で信頼性の低い奴に観えるに違いない。



更に、更に・・・
こんな感覚を持つひとも居る。

共感覚を持つ人には文字に色を感じたり、音に色を感じたり、形に味を感じたりする。

数字に色がついて観えて、計算結果も瞬時に色で観える・とか、

タメットは、数字を色相や感覚と結びつけて理解する共感覚能力を持っている。彼の説明によると、1から10,000までの数字は各々の形態・色・手触り・感情を持っており、計算の結果導出された数字たちを、直感的に共感覚的な景色であると“みなし”たり、素数なのか合成数なのかを“読み取る”ことができるのだという。中でも、“289”のイメージを特に醜く、“333”は特に魅力的で、円周率は美しい数字であると評している。また、数字のイメージを文章で書くだけではなく、芸術作品として視覚化する等の試みも行なっている。

音に味覚を感じられて、それが演奏や作曲に反映されている・とか。
えーっ!!!・・・という感じだけれど、

共感覚者は、他の人がそれをもっていないことを知るまで、自身の体験が特別なことだと感じないことが多い。

そりゃ、そうだろうなぁ。生まれてこのかた、そうなんだもの。
そして僕自身も、

三者が対象者に触れているのを見て自分が対象者に触れているのと同じ触覚が生じたり、第三者が対象者に触れられているのを見て自分が対象者に触れられているのと同じ触覚が生じたりする共感覚

これは、はっきりあります。で、人間すべてにある感覚なんだと、今日まで想ってました・・・。
ライブ・エンタテイメントやスポーツを観てると、演奏者・出演者・プレーヤーの体感を、疑似体験します・・・少なくとも僕は。だから思わず手に汗握るし、声も出る。


でね、ダンスの振り付けを覚えるのが素早いひとや、スポーツを習得するのが早いひとって、きっと僕よりもはるかに、この能力に長けてるんだろうな。



一方で、”いったい何をそんなに興奮してるの?!?”と醒めた目で冷笑する観客もいらっしゃるわけで。
そうか、まったく体感の共感覚を持ってなければ、そりゃそうなるわなぁ。

フランツ・リスト(作曲家・ピアニスト・指揮者)
オーケストラを指揮したとき、「ここは紫に」など、音を色として表現した指示ばかり出し、団員たちが困惑したエピソードが有名。

わはははは・・・!!!
でも、リストにとっては、それが一番的確に、出したい音を表現する言葉だったんだろうね。それ以外に言い表しようが無いほどに。


ひとにより、価値観はいろいろ。
それ以前に、感覚そのものが、こんなに多様。
なるほど道理で、相互理解って難しいわけだわなぁ。
と同時に道理で、相互理解って豊かなわけだよねぇ。



そしてたぶん、共感覚もスナップショット記憶も、にぶらせているだけで、本来はみな持ってるんじゃないかなぁ。
だからこそ・・・

ウォルト・ディズニーの作品「ファンタジア」は音楽映画として色彩と音楽を融合させた最高傑作です。この作品の中でも、ベートーベンの交響曲、第六番ヘ短調「田園」作品68の全曲が色彩に翻訳され見事に描かれていました。

あの映像を観て、”おぉ、音楽にぴったりだ!表現を深化してる・・・”と多くのひとが感じるのではないでしょうか。


芸術やスポーツって、観客が本来持っていた共感覚を刺激するのかも。


でね、リストに”ここは紫に”と指示されたなら、困惑しつつも、ちゃんと紫っぽい音が出せちゃうんだと想うなぁ。