私の愛したマイケル リアリティーとファンタジー

湯川れい子さんへのインタビューを主体にした記事。

マイケルは黒人を捨てたと言う人もいるが、私はそうは思わない。あれほど黒人の音楽にこだわった人はいない。マイケルの音楽に白人は絶叫して涙を流し、黒人は自らもスターを夢見た。その時代があったからこそ、オバマ大統領を選ぶ時代が来た

 米カリフォルニア州在住のコラムニスト、町山智浩さん(47)の見方は厳しい。

 モンロー、エルビスジェームズ・ディーン。「アメリカのスターはみな、現実と自分のキャラクターの境界線を見失った。自由と民主主義と夢の国だと言っているが、作り物が現実に優先するファンタジーの国。その象徴がマイケルで、アメリカらしいものを全部吸収していった。マイケルはリアリティーのないディズニーランドを現実にしたかっただけで、メディアが作り上げたアメリカのアイコン(偶像)だった」

そう言いたくなる気持ちはわかる。そう言い表すことも出来るだろう。


でも、僕はもう一段深く問いかけたい。
町山さん、リアリティーって、なに?


僕たちは、ありのままの現実なんて、ごくわずかしか見ちゃ居ない。
僕たちが感じているリアリティーの、ほとんどすべては、解釈したり、推測したりしたものだ。そこには必ず、無意識のうちに”ファンタジー”が介在している。世の中とはこういうものだ・あのひとはこんなひとだ・こういう現象にはこんな意味がある・・・といった”ファンタジー”が。


ファンタジーはとても役に立つ。もし”意味づけ”や”推測”がなかったなら、文化も文明も存在し得ないだろう。
と同時に、しばしば実際とズレて、ひとを苦しめる。
だから、ファンタジーと、ありのままの現実とのズレに、気づき、ファンタジーを構築しなおすことが大切になる。その大いなる助けとなるのが”芸術”だ。


たとえば、町山さんが記事中で言う

肌を漂白してゆくマイケル

・・・これは、ファンタジーだ。真実か否か、確認されていない。
それどころか「自己免疫性疾患で、肌の色素が破壊されている」と説明されているにもかかわらず、そう理解したがらない人たちが居る。
彼らの中には、たぶんこんな物語がある。
「黒人は、白人でありたがるはずだ。湯水のごとくお金を使えるひとなら、なおのこと」
その物語が、ありのままの現実を観る目をゆがめる。
どんなにマイケルが、「肌の色なんか、どちらでもいいじゃないか」と歌おうと、人種差別への怒りを踊りで表現しようと、そのひとの中にある”ファンタジー”が強烈で無自覚であればあるほど、解釈はゆがみ、物語をますます強化する。「ほら、黒くなくてもいいって言ってる」「黒人への人気取りのために、黒豹を演じただけさ」


マイケルの踊りに、ガツンと来る。これが”ありのままの現実”だ。
着ぐるみと、子供の交流に、なぜか胸が熱くなる。これが”芸術”だ。
スタジアムショーも、テーマパークも、まぎれもなくリアリティーのひとつ。現実に存在している空間だ。そして”幸福とはなにか”が明確に見えやすいようにデザインされているアートでもある。


マイケルにリアリティーが無いのではなく(だって彼は、まぎれもなく”実在”したひとだったのだから)、
私たちの中に在る”マイケル像”というファンタジーが、私たちの中にある”リアリティー”というファンタジーと、衝突するのだ。
そして横暴なことに、マイケルにプレッシャーを与えて、彼を変えようとしてしまう。自分のなかの”ファンタジー”と合致するように。
たとえば「成功者は、孤独にさいなまれる」「黒人は白人にあこがれる」「お金持ちは無駄遣いをする」「私たちが世界を変えられるわけが無い」「大人が無邪気で居られるわけが無い」・・・


実はこれこそが、町山さんが指摘している

作り物が現実に優先する

という現象だ。
町山さんの指摘する現象は、実は、町山さん自身の中でも、起きている。


だからこそ、ディズニーランドには存在意義がある。
ありのままの現実と、無意識のファンタジーのずれに気づく場所として。
幸せの巨大シミュレーターとして。
うまくいくファンタジーを、創造しなおす場所として。


7/12追記

町山智浩さんって、はてなで日記を書いておられるんですね。
マイケルの追悼式を取り上げた記事が、秀逸で、素敵です。

そしてジェーメイン兄貴が静かに「スマイル」を歌い上げた。
式ではマイケル・ジャクソンの歌がいろいろ歌われたけど、「スマイル」が最も感動的で、象徴的だった。


微笑んで
胸が痛んでも
微笑んで
心を砕かれても
空は曇っていても、なんとかなるよ
恐れと悲しみのなかにあっても微笑もう
そうしたらきっと明日は太陽が顔を出すよ
君のために


とっても素敵な記事だけれど、下記の部分は、町山さんのファンタジーだと想う。

ガキの頃から金儲け目当ての大人たちに囲まれて育った二人にとってお互いだけが本音で話せる相手だったそうだ。

たしか、”金儲け目当ての大人たち”とは言って居なかった。
そして、”本音で話せる”というレベルではなく、もっと重要で大切な、お互いの境遇をほんとうに分かり合え、子供らしい無邪気さをはじめて発揮できた間柄だ・・・と言っていた。


”子供らしい無邪気さの快復”
ディズニーや、マイケルの、生涯かけたテーマ。
そして、”ありのまま”を感じ、本質を見通せるようになるために、必須なことでもある。