「エンタメ」の夜明け

面白くて、一気に読んだ。

  • 冒頭が、ディズニーランド日本誘致を決めた、三菱vs三井・富士山麓vs浦安の、あの対抗プレゼンテーションの、詳細な描写。<・・・これで買う気になった。

数年前、志の助さんが毎日新聞に連載しているコラムで、浦安チームのプレゼンテーションの模様を、サラリーマン時代の経験談として書いておられた。”Oh! 浦安はほとんど東京””これはニューヨークにディズニーランドを創るようなものだ”ディズニー首脳に1日でそう納得させたと志の助さんがいう、見事なプレゼンテーション。


その詳細を読み、改めて感じ入った。
ディズニー社がなにを重視しているのか、競合相手・富士山麓に対する浦安の弱点と長所はなにか、なにを訴求するか、効果的・体験的に伝えるにはなにをすればいいか。
サプライズを用意し、相手の食前酒の好みまで調べ、あいさつの内容に対応して、機転を利かせて進行を変え。
プレゼンテーションそのものが、見事なライブエンタテイメント。


”ひとのこころを掴む”
これまで僕はそれを、どこかしらはしたないことであるかのように感じていたかも。
実際、そのような努力は、一切してこなかった。
「ありのままのこの俺を、気に入るならどうぞ、気に入らないなら、しょうがないよね」・・・みたいな。
でもね、相手のありのままを深く知り、こちらのありのままを深く伝えるための、努力と思いやりというのは、いろいろと出来るもんだなぁ。


もうひとつ感じたのは、決意と時流。
当初三菱と組んでいた東宝を、中立の立場に立つように説得した、その決意。
革張りの企画書にこめた思い。
三井・三菱という2大グループが同時にオファーしたからこそ、ディズニー首脳がこぞって来日し、南米やヨーロッパではなく日本に決めたのかもしれない。
オイルショックがもう少し遅かったなら、三菱の熱意は高く、富士山麓に決まっていたかもしれない。


  • 浦安誘致プレゼンテーションを成功に導いた堀さんの師匠、小谷さんが、1962年にアメリカの広告代理店を訪問した際の逸話。

帰り際、小谷にもみやげの箱が渡された。開けてみると、『S.K. from Y6R』と、小谷正一のイニシャルが彫られたゴルフボールが1ダース入っている。小谷の顔を見てから慌てて用意したのでは到底間に合わない記念品である。が、吉田秀雄の名前は先方に知らせていても、随行の小谷の名前を知らせた覚えはない。魔法だった。
人の心を掴む技術は日本の専売特許と思っていた小谷は、その分野でもアメリカが先を行っていたことを思い知らされる。

10年ほど前、外資系企業のセミナーを、アシスタントチームのキャプテンとしてお手伝いした際。
「米国人トレーナーはたいてい、”無理難題”を一度は言って来るよ」と聞かされていた。
案の定、来た。2日目が終わろうとしたとき・・・
「私には実は、友人が名づけてくれた日本名があるんだ。」と受講生に話した後、休憩に入って。
「田村さん、その名札・・・手書きではなく、きちんと印刷されたもの・・・を、明朝、開講前には用意しておいてくれ。」
すでに夜8時。出先での開講ゆえ、使えるパソコンもプリンタも所定の用紙もなく。”えぇっ!無茶言うなよ・・・”


でもいざ走ってみたら、工夫と交渉と、最後にはトレーナー自身のアイディア援助で、無事用意できた。
もしも、どういう漢字を使うのかを、僕が通訳さんにきちんと確認してさえいれば、言われた30分後には用意できていた。


そのときには、なぜ無理を言うのか納得してなかったけれど、
どうやらこうしてアメリカ人は、魔法を使う能力を鍛えているらしい。
そして実際、「あっ、名札が変わってる!」・・・受講生とトレーナーの距離を縮める効果が、確かにあった。受講生とセミナーとの距離も、縮まったことだろう。


  • 手塚治虫さんが月刊誌「ディズニーの国」1963年10月号に書いた「ディズニーさんとぼく」という文章も紹介されています。

世界じゅうが---日本でも---ディズニーさんのやりとげたことを、あとから、どんどんまねをしはじめました。ぼくだって、ディズニーさんのあとをおいかけるために、絵をそっくりまねをしたものです。
このあいだ、ディズニーランドのまねをした、遊園地にいってきましたが、なにからなにまでディズニーランドそっくりなのですが、なにか、ひとつものたりないのです。見おわって、そのたりないものがなにか、やっとなにかわかりました。こどもたちへの愛情だったのです。つまり、ほんとに心のそこから、こどもたちのために、つくったものではなかったのです。
ディズニーさん、どうか長生きをして、もっともっと、世界しゅうのこどもたちをよろこばせてやってください。

1961年が奈良ドリームランドのオープン。
ぼくが生まれたのが1962年。
1963-66年が、日本初のテレビアニメ「鉄腕アトム」の放映。
1966年にウォルトは亡くなり。


1958年、京成電鉄社長の川崎千春さんがディズニーランドに魅了され、
1960年、オリエンタルランド創立
1960年代初め、川崎さんは正式に、浦安へのディズニーランド誘致を持ちかけるが、剣もほろろ。


50年代、商業放送勃興期の蓄積が、60年代につながり、
70年代、大阪万博で、エンタテイメントの企画・運営能力が大きく飛躍。
そしてようやく、冒頭のディズニーランド誘致決定。


そのあとも、実現までには、たくさんの”ディズニーさんのあとをおいかける”ひとたちが、そこここで危機脱出を援助し。
経験の蓄積と、夢を共有する人の集積が、舞浜にエンタテイメントをもたらしたんだなぁと想った。
その夢の核心は、なんだろう。おそらくは、ドリームランドになくて、ディズニーランドにあったもの。

こどもたちへの愛情

この一言に、集約されるのかもしれない。
無邪気な喜びを引出す魔法、とも言えるのかもしれない。


ぼくの夢の正体も、そのあたりにあるのかも。