「幸せ」と「嬉しい」は違う

たとえば父の死、ティピコ・オリエンタルの最終日、スターライトジャズの最終日。
いずれも最高に幸せだった。
でも、最高に悲しかったし、最高に嬉しかった。大きな悲しみと大きな喜びを同時に感じていた。泣きながら笑っていた。


「幸せ」と「嬉しい」は別物。それは確か。


どう違うんだろう。
「嬉しい」「悲しい」は感情だけれど、「幸せ」はたぶん、違う。そんな気がする。どうなんだろう・・・。


ユリーカ!〜仏陀の悟りに到る道〜: 苦の解脱5:幸・不幸は一対 http://mind.moo.jp/cgi/mt/archives/2004/09/post_53.php より

幸福と不幸とは一対、表裏一体、裏腹である。
(中略)
私も、幸福感覚と不幸感覚が交互に来る実感がある。

んなこたぁない。
ひょっとするとこの思い込みが、多くの不幸を創ってるんじゃぁなかろうか。

例えば「ブルーマンデー」「月曜日の憂鬱」。
これは何も月曜日に不幸な出来事が起きることを指すのではなく、
日曜日、デートなどで過ごして、楽しければ楽しいほど、
その反動として月曜日は鬱になるという心の法則である。
大きな幸福の後には、必ずその反動として、
それが過ぎ去った後、同じだけの喪失感、憂鬱感が襲って来る。
逆に、不幸や苦しみの後、例えば、
病院から退院した直後は、ただ健康で動けるだけで喜び一杯になる。

ふむふむ。この筆者は、「楽しい」を「幸せ」と、「鬱」を「不幸せ」と混同しているな!
「喪失感」と「不幸せ」を、「喜び」と「幸せ」を、混同しているな!

「楽あれば苦あり」「苦あれば楽あり」
「禍福は糾える縄のごとし」「人生万事塞翁が馬」……

こちらは、僕の実体験にも合致する。
父の死は「苦」だ。でもね、苦=不幸ではない。
さぼりは「楽」だ。でもね、楽=幸福ではない。


たとえば、ティピコ・オリエンタルの最終公演。最高に幸せだった。
今、会えない寂しさを感じる。そして、その寂しささえも、幸せ。
「楽」と「苦」
「喜び」と「悲しみ」
「禍」と「福」は、たぶん一対、表裏一体、裏腹なんだろう。
自然はいつも変化し移り変わるから、裏が出たり、表が出たり。
その変化を成したい価値の資源にすることも、障害物にすることも、出来る。


変化の実相をありのままにとらえられているとき、僕は大きな「幸せ」を感じる。
そんな時、その変化を成したい価値の資源にしてしまっている。


いやいや、それとも。
どんな出来事にも「禍」の側面と「福」の側面があるように、
どんな出来事にも「幸福」の側面と「不幸」の側面がある、ということかな・・・それは確かにありそう。


ちなみに、「愛」と「好き・嫌い」も別物。
たとえば、「大嫌いだけれど、愛している」なんてこと、よくあるでしょ。


「愛」と「好き・嫌い」
「幸せ」と「楽・苦」「喜び・悲しみ」「禍・福」
「ありのままを観る」と「制御」「抑制」
の混同が、ひょっとして仏陀の教えをわかりにくくしてはいないだろうか・・・なんてね。でも、まじで、そうかも。


そうそう、「愛」も「幸せ」も、何の前提条件もなく、創り出す事が出来る。自分さえ居れば、ほかに何にも無くっても。おそらく熟達すれば、どんな環境下でも。
われわれという存在そのものが、「愛」から生み出されている。そのことを実感したとき「幸せ」なのかもしれないなぁ。
「好き・嫌い」「楽・苦」「喜び・悲しみ」「禍・福」は、どうなんだろう。直感的には、対象が無ければ想起されない感情だという気がするなぁ・・・。いや、 innocentsoulさんのコメントのように、思考に近いというのが正確かなぁ。