世間様教

私の音叉:世間は誰が決めるもの?http://d.hatena.ne.jp/yukolovesmusic/20041106#p1
人が悪い事をしない理由は往々にして 罰がどこから来るのかを怖れる気持ちが実はメインだったりするもので(^^ゞ その罰が降りてくる場?もの?は 西洋では神様 日本では世間だったりする 西洋の神様は歴史の中である程度明文化されてるんだけど この 世間 の方は流動するし実体も無く 思い込みでいくらでも作れるものなので その意味では大変始末が悪いものだと思う そしてこの世間は和の心を持って安定 つまり 和を見出すものは排除される けれどじゃぁ その和を乱すとされる基準はいったい何なのか それは世間 堂々巡り(笑) だから結局は 最終的に自分がどう世間を把握しているかになっちゃうよね つまりは 自分

罰が来ることを恐れて最初から地獄にいるよりも、
恵みを育むことに意を注ぐ。それが大切。たぶん。


ほんとうは、罰って、自分自身の懸念の投影。「大切なものが損なわれるんではないか」という・・・。
でね、神が居ようと居なかろうと、世間があろうとなかろうと、懸念は現実化する可能性がある。


世間といっても、半径5cmから500kmまで、参加率0.1%から30%まで、いろいろあります。
神のイメージも、いろいろ。クリスチャン同志だって違うイメージを持ってるはず。
「私はこういう懸念を想定してる」・・・と具体的に観、述べたほうが、その世間に属してない人にも、神のイメージが違う人にも、わかりやすいですね。

ちなみに私の基準は 誰も見てなくても自分は見ている かな 自分が自分を許せないのは実は一番辛いから だって逃げ場が無いんですもん 自分はいつも一緒だから(笑)

わ!僕と一緒だ(^^)
で、残る逃げ場は、自分自身を誤魔化すこと(^^;;;
そして、たとえ自分自身を誤魔化し続けたとしても、自分が真に望むことと違うことをやっていると・・・体を傷めます。聖書に「人は人を裁くな、神が人を裁くから」ってなことが書いてありますが、それって例えばこういうことなんではないかなぁなどと私は想ってます。