被爆者の体験談

今日をどう呼ぶかちょっと逡巡。
原爆忌原爆記念日・・・どちらもそのとおりなんだけど、しっくりこなくて。
平和祈念日・・・が、こめる意味合いとしては一番ぴったりします。


高校のとき。放送部がNHKのTV番組コンクールで賞を取った記念に、校内で放映。
一体どんな番組だろう・・・画面に登場したのは、こわもてで知られる男性体育教師・服部先生(「はち」なんてあだ名で、みなこっそり呼んでました)。先生が終止一人で語ったのが・・・被爆されてたとは、知らなかった。思いもしなかった。
広島県に生まれ育ったので、知識はたくさんありました。でも、直接被爆された方の体験を聞いたのは初めてでした。いつも豪放磊落な先生が、感情を抑え、淡々と語られる。その姿と、私の脳裏に鮮明に描かれる情景の凄まじさとのギャップ。
全て語り終えて、初めて先生は声を詰まらせ、絞り出すように「あんな出来事は2度と繰り返してはいかん」とおっしゃって、涙をぽろり。心をきゅぅっとわしづかみにされました。


大学に入って広島市内に下宿して、大家さんの体験談を聞いたのが2回目。これまた娘さんを亡くされたという悲しい出来事を、淡々と語られて。かえって胸に迫るものがありました。
そして一昨年、労働組合の平和の取り組みに参加して、長男と広島YMCAでのワークショップでうかがったのが3回目。そのとき書いた記事を以下転載します。

真っ青な空・強烈な日差し・沸き起こる入道雲。濃い緑・きらめく水面・まったりとした時の流れ。まさに絵に描いたような夏休み!!!
高速道路・高層ビル・地下街。すっかり美しく・便利に変わってしまった・・・「こんなに素敵な場所だったっけ、広島って」・・・嬉しいと同時に、寂しくもあった。
生まれてから就職まで、25年間を過ごした広島県大久野島から近い町、三原で20年。空港付近には3年間、広島市内には2年間下宿した。指折り数えてみれば、なんと三原は8年ぶり。広島市内に滞在するのは15年ぶりだ・・・・・。
緑が生い茂り電車通りから見えなくなった原爆ドーム。コンクリート打ちっぱなしだった原爆死没者慰霊碑御影石に。見慣れた被爆建物は取り壊され、きれいな模型が展示されていた。動員学徒の遺品が増えたのは親御さんが亡くなられたからか。石段に焼き付いた人影は一層薄くなり、ガラスケースの中に。静謐で荘厳な広島原爆死没者追悼平和祈念館。・・・みな猥雑さが消え、美しくなっていた。時の流れを感じた。
大久野島には毒ガス資料館が出来ていた。「終戦時に資料は焼却されたから、全貌はわからない」と言われていたのに、よくぞここまで・・・。イラク軍の毒ガス攻撃で亡くなった子供の写真に、胸が痛んだ。
連合平和ヒロシマ集会。美しく空っぽな舞台に、次々と・延々と積み重ねられる、おびただしい千羽鶴。圧倒された。なんとたくさんの人々が、ここに思いを寄せているのだろう・・・。そして、平和祈念式典。スピーチにこめられた思いの深浅が、手に取るようにわかる。拍手の大きさもはっきりと違う。その場に居てこそ感じられることがあった。広島市長の「すべてを愛せなくても、違いを容認するだけで、平和は実現できる」「知性と情感の両面が大切」に共感した。
被爆体験を語ってくださった内田千寿子さんは、まさに知性と情感を豊かに兼ね備えた方だった。
爆弾3勇士のように世の中から褒められたいと、従軍看護婦を熱心に目指した。ご両親が強硬に反対していなければ南方戦線で、お姉さんが諭していなければ広島で、命を落とされていたことだろう。その体験から「世の中に流されるのではなく、日々の実感を言葉にすることが大切」と、農村の主婦を集め、毎月エッセイ集を発行する活動を続けてこられた。被爆直後の赤十字病院で立ち会ったおびただしい不条理な死。戦後は産婦人科の看護婦さんとして、数多くの生命誕生に携わってこられた。今もチェルノブイリ支援を実質主義で続けておられる。JCO事故被害者の医学的分析などなど、話は多岐にわたり、いずれも興味深かった。思いやりと静かな迫力に満ちていた。
「甥は、行方不明の姪を探して焼け野原の町を毎日歩くうち、小遣い稼ぎで橋の欄干を盗ったりする仲間に入った。建築現場の遺骨をどかす手伝いを平然としてた時、赤ちゃんを抱いたお母さんの骨が出てきて、はっとした。その感覚が残っていることに“僕はまだ大丈夫だ”と思ったそうよ。」
大切な何かが欠けたとき。怒る・自分を責める・感覚を麻痺させる。そして、必要以上に欲する・奪い合う・争う。自分の愚かしさにコントロールされてしまう。私はそうなりがちだ。
自分に注がれる愛、そして、人みな例外なく愛を誰かに注ぎ・注がれていることに思い至ったとき、ふと正気に戻る。地に足がつく。現実を見据える。正しさを手放す。違いが許せる。・・・振り返ると、そうなのかもしれない。
灯篭流しの帰りに乗ったタクシーの運転手さんが、「もともとは私たち遺族が亡くなった人の名前を書いて灯篭を流してたのが、今はイベントになってしまって。たくさんの人に伝えていくには必要なことなんだけれど、複雑な思いはあるよ・・・。でも、広島と他の地域では、平和への認識にまだまだ大きな差があるからね。」そう、広島の平和教育は突出している。他府県出身の友人が多く出来て、初めてわかった。職場のある方が「被爆を持ってこないでね」と冗談を言った。まったく悪意はない。ただ、放射線障害が、当初、原因不明の伝染病として恐れられ、被爆者がいわれのない差別を受けたことをご存じないだけなのだ。
高校の体育の先生。下宿の大家さん。被爆された方たちの体験談は、私の心に深く刻まれている。時は流れ、被爆者は亡くなっていく。行方不明の子供を捜してさまよった世代はもうほとんど居ない。生の体験談を聞けるのも、あと10年ほどだろうか・・・。
そんな中で、何ができるのだろう。証言や遺影のデジタル化。資料の収集と保存。原爆の絵。祈りの場所を整え、平和のすばらしさを歌い上げること。さまざまな努力が感じられた。
翌日、母校で25年ぶりに会った恩師曰く、「葛藤こそが人を成長させるんだと思うよ。」不条理を受け止め、現実を理想に近づけるべく、着実に本気で歩む。つらい思いが、いろんな立場への理解を深める。思いやりが増す。だから、千寿子さんはあんなに優しくて、力強いのだろう。
そして、親友との話。「いかにひどいかを示すだけではだめ。人生のすばらしさも同時に示すことが大切だよ。」そして腑に落ちた。そう、広島は平和のすばらしさを伝え続ける町として、発展しているのだと。