とことん味わう と 足るを知る のかも

一昨日のHT千葉市川で出た話題の一つが、”とことん味わう”ということだった。


悲しかったり、腹が立ったり、寂しかったり・・・といった、嫌な体験をしたときって、
つい、気持ちを切り替えたり、ごまかしたり、妥協して終わらせたりしてしまいがちだ。


すると・・・
次の月に、また似たような体験が、より強烈にやってきたり。
10年たっても20年たっても、あの嫌な出来事を、いまだに忘れられなかったり。


実際びっくりする。
たとえば自己探求セミナーで、両親との過去の出来事を思い出す実習をすると、
”あのとき、こんなに辛かったのに、我慢して言えなかった”というたぐいの思い出は、実に生々しい感情を伴って、ありありと再現される。
それがたとえ、大人になった私たちの目から見て、ささいな、しかも、やむを得ない事柄だったとしても、
”つらかった、悲しかった、寂しかった”と、何十年もたった大人のわたしそのものが、生々しく感じる。
こころに蓋をして、その感情が湧き上がってこないようにしてただけ。


で、あえてその感情をしっかりと発露させ、味わい尽くしてしまうと、
”体験が完了”してしまうのか、
もはやこころの蓋を開けても、なんの差支えもなくなってしまう。少なくともその件に関しては。


似たような嫌な出来事が、なぜか繰り返しやってくるようなときも、
あぁ、これできっちり味わい尽くして、こころの底から妥協なく対処し終えたなぁ・・・と納得した途端、ぱたっとやってこなくなったりする。
繰り返しやってくることがあるときって、まだ味わい尽くしていないなにか根っ子が、もしかしたらあるのかもしれない。



そして・・・
おんなじことが、嬉しい体験についても言えるのかも。
ひできさんの、はっとする記事最高の戦略の本質とは省略すること - HPO:機密日誌経由で、このBlogに出会った。

私  「でも、物質的には恵まれているはずの先進国の人間は、その、中ぐらいなり、欲望の範囲なり、終点なりがわからなくて、どんどん、どんどん、進んでしまい、物質的に恵まれていても、『足るを知る』ことが難しくなっているのかなーと。現状になかなか満足できなかったり、欲望を追求して、たとえばサブプライムやカード破産が起こったり」



おじさん  「それがね、興味深いよね。僕もね、同じ問題に興味があって、考えてるんだ。なぜこの人たちは一定のところで『足るを知る』ことができないのだろうと思って。でもずっと観察して、ずっと考えているのだけれど、どうしても、わからない。精神構造が違うとしか、思えない」



私  「精神構造が違う、ですか」

私たちは、喜びや欲望を抑圧して、きちんと味わい尽くしていないから、
いつまでも繰り返し繰り返し、求めてしまうのではないだろうか。




予測・感情と、直感・体感って、時に真反対だったりする。
嫌なことがありそうだと恐怖を抱きつつも、直感は”行け”と言っていたり、
大好きなディズニーランドに、直感は”今日は行くな”とつたえて来て、身体がその気にならなかったり。


20年ちょっと前、僕はこころに蓋をしてたから、予測しか観ていなかった。
こころの蓋を開けたとき、数年は、感情と直感の区別がつかなかった。
桜の木を見て、”うわぁ”っと感動する。木の美しさと自分とが、溶け込んでつながったかのような感覚になる。この瞬間って、感情よりも、体感や直感の領域がぐっと大きいだろう。その体感がたとえば過去の思い出や未来の予測とつながって、寂しくなったり嬉しくなったりしたなら、感情。
・・・わかってしまえば明白なのに、でも、区別がつかなかった。
すると。
味わうべきことを、味わい尽くさない。
出会うべきことに、出会わない。
もう十分味わい尽くしたのに、惰性で執着してしまう。中毒になってしまう。


一昨日のHT千葉市川では、”プロセスへの信頼”とか”誠実”といったことばが出てきた。
生きていく中で、体験したい出来事に、ちゃんと出会って、味わい尽くして、変化していく。
ちゃんと出会い、しかるべく変化していく・・・ということを、信頼しているから、ごまかさない。
ブータンの人たちと、わたしたちとの違いは、ここにあるような気がする。

おじさん  「ブータン人は、大丈夫だよ。僕たちには、チベット仏教の教えが深く根付いている。我慢をしないでよく遊ぶ、楽しく暮らす。そしてある程度のところで、自然に足るを知って、落ち着いていく。昔も今も、なにもかわらない。欲望というものは、本質的なもので、得られる情報の量だとかでそう簡単に変わるものではない」

逆に私たちは、
予測や感情にばかり振り回されて、
直感や体感や生理的状態を、きちんと観ていないから、
自分の”欲望”も、正確な姿が見えなくなってるのかもなぁ。