ハーバード白熱教室 第6回 「動機と結果 どちらが大切?」カント

http://www.nhk.or.jp/harvard/lecture/100509.html
学生の表情が美しい。


カントはこう考えた

理性を持ち、自由な存在だから、すべての人間は尊い


カントの云う 自由=自律的に行動する=自分自身で与える法則に従って行動する
反対概念:他律=傾向性(本能的な欲望や衝動)に従って行動する


他律的に生きるときは、自分は、外から与えられた目的に対する道具。
自立的に行動するとき、自分は、自分の目的のために生きている。動物とは違う。原因と結果の法則や自然法則から自由。
だから、人を道具として使うべきではない。

行動の道徳的価値は動機で定まる
善意は、それ自体が宝石のように光り輝く

道徳性・・・義務 vs 傾向性
義務の動機だけが、行動に道徳的価値を与える。


カントの見方だと、
おつりを、”悪い評判が立つから”とごまかさないのは、道徳的価値はない。自己の利益のためだから。
みじめなくらしでも、自己を気高く保つために自殺しないひとは、道徳的価値が高い。
正直は最善の策、これも道徳的価値はない。


では、この教室に1000の道徳があるのか、ひとつの道徳なのか。
カントは、理性はひとつであり、普遍的な能力だと考えた。だから、各自が自律的に法則を見出しても、おなじ道徳となる・と。




道徳性の最高原理はなにか
どうすれば自由は可能になるか


3つの対比と2元論
動機:義務 vs 傾向性

道徳的行動って、ありうるんでしょうか

われわれは、多くの場合、自己の利益に沿って行動しがち。でも、人間には、自己の利益や傾向性を超えて、行動する能力があるから尊い
スペルを間違えたスペリングコンテストの英雄のはなし。「自分を嫌なやつと想いたくないから」

動機の一部が傾向性からきていても、それが道徳的価値を損ねるとはいえない・・・赤い衣装のジュディス・可愛い!

自由:自律的 vs 他律的
命法:定言命法 vs 仮言命法


定言命法
普遍的法則の定式:その行為の格律を普遍化しても、格律を掘り崩すことがないなら、定言的
格律 人がそれに従って行動する原理・原則
たとえば”うそをつくべきではない”という格率。みながうそをついたら、何も信用できない。だから、定言的。
これは、テスト。自分の特定の欲望を満たそうとしていないかどうかの。


存在そのものが絶対的価値・目的そのものを持つとき、そこへの働きかけは定言的。
理性的存在を、単に手段として扱うのではなく、常に、同時に目的として扱うように行動せよ。
自殺は自分自身の内側にある尊厳を失うことであり、殺人は他人の内側にある尊厳を失うこと。どちらも道徳に反する。
尊厳は、個人の特性とは関係ない。普遍的理性的能力の尊重。愛や好みとは違う。


自分自身や他人を、私たちは手段として用いる。そのこと自身は、道徳性に反しない。そのときに、相手の尊厳を尊重するやり方で用いるなら。
そして、どう尊厳を尊重するかは、定言命法で与えられる。




今回、僕なりに理解したのは・・・
カントの言う”義務”は、他人や状況から選ばされるものではなく、己の内なる基準から、自律的に見出すもの。やらされるとは対極。
カントのいう”自由”は、欲望や好き嫌いや因果則からの、自由。好き勝手とは対極。
カントは、絶対的価値を、”理性”の尊さに求めた。価値を判断するのがそもそも理性なのだから妥当だろう。そしてそもそも、この番組に登場するハーバードの学生たちの美しさそのものが、”理性的であろう”とする尊さの発露。そう想った。


ただ、どうなんだろう。
動物に、尊さはないのだろうか。彼らもしばしば利他性を発揮する。
植物に、尊さはないのだろうか。
鉱物に、そして地球に。


道徳は、ひとつなんだろうか。
Aという命法は、普遍化してうまくいく。Bという命法も、普遍化してうまくいく。でも、AとBが両立しない・・・ということも、ありうるんではないだろうか。
どのように講義が進展していくのか、とても楽しみだ。