奇跡の映像 よみがえる100年前の世界 第3回 翳りゆく共存の輝き
第一次大戦前夜。まだ多様性に満ちていたヨーロッパ。中国西域とシルクロードで地続きなんだなぁと強く感じた。
地域ごとに、言葉も違えば文化も違ったフランス。美しくのどかな田園風景・・・その背景は出生率の低下。人口が増えるドイツとひらく国力の差。学校教育を通じ言葉や文化の統一が進められていたという。
ノルウェー・スウェーデン。美しくのどかな風景。経済悪化に苦しみ、人々がアメリカへと流出していたという。様々な民族衣装。伝統文化が強調され、晴れ着として着ることが一般的になっていたという。
イタリア。子どもが沢山!統一されてまだ40年ほど。ベネチア。住居の一階が流入した労働者たちの住居に。もともと一階は倉庫としてしか使われていなかった。湿気が多く、時には下水が流入し、非衛生的だったから。そのため、二〇世紀になってもコレラが流行。井戸の上に得意げに乗る大勢の子供。たぶんガラス工場の児童労働者だそうな。義務教育制度が敷かれていたものの、通える子供は少なかったという。
バルカン半島。オスマントルコが衰弱し、国民国家が生まれた頃。多様な民族衣装を来た人々が共存して写っている。オスマン帝国撤退直後・1913年のマケドニア。オスマン帝国では、民族ではなく、宗教のコミュニティで統治していた。だから、”どの宗教に属しているか”が自分の位置づけだったという。服装の多様さは、その反映なんだろうなぁ。港町サロニカ。ユダヤ教・イスラム教。軍人。・・・この後10年で、イスラム教徒は完全に姿を消す。30年で、ユダヤ人も。そしてサロニカは、ギリシャになったという。内陸部。とても多様な民族・・・オスマン帝国には宗教ごとの服装規定があったという。うろつく各国の軍隊。村に入れ替わり来ては「おまえたちはなに人だ?」と選択を迫る。2週間後、第二次バルカン戦争が勃発。マケドニアは分断される。戦後も続く宗教迫害。戦後すぐ、またカメラマンを派遣。道端にテントをはる難民・ギリシャからトルコへ脱出しようとする50万人ものイスラム教徒。
第二回もそうだったけれど、
映像そのものの印象と、解説されるその背景とに、しばしば激しいギャップが。
貧しくても、閑散としてても、ぎゅうぎゅうでも、このままでいいじゃないか!・・・と想いつつ、
でもその風俗や文化も、人為的に、ちょっぴり前の時代に創られたものだったりするわけで。