21世紀

一瞬といえども、ぶつぶつ不平を言うことに時間を費やすな。そのようにして浪費さるべき時間を希望を前途に輝かせてあなたの願いを想望しそれを具体化するために費やせ。自分自身に対して、“繁栄”の観念を暗示せよ。繁栄せる状態を心に描いてすでに繁栄状態にある自己自身を想念せよ。具体的にも日ならずして繁栄に入ることを信ぜよ。静かに落ち着いて、しかも強力に自信をもって“繁栄”を想念において凝視せよ。それを信ぜよ、それを絶対に信ぜよ。その実現を予期せよ。繁栄の想念を予期の裏付けをもって培養せよ。

1896年の文章だそうな・・・。


100年ほど前・・・19世紀末から20世紀初頭に、僕はなぜか、とても惹かれる。
たぶんそれは、
今の私たちの在り方の原点が、そこにすべてあり、
うまくいく道も、すでに提示されてる・・・当時はまだ、ごく限られた人しか気づいていなかったにせよ・・・からだろう。


たとえば、先日出かけたヨドコウ迎賓館(旧山邑邸)。
90年前の設計だけれど、今もなお新鮮だった。
”いま、ここで暮らしたら、こんな楽しい生活が”・・・と、容易に想像できる。
土地を平らに整地してしまうのではなく、地形に沿って建物を建てる。
自然を活かし、友人を迎え入れ、おのれをまっすぐにし。
合理的で、抽象化されていて、温かみがある。
心地よい小ささ。
などなどなど・・・
現代的でありながら、同時に、いまなお先進的。


そんな先人たちが枠組みをセットしてくれた、20世紀って、どういう時代だったのだろう。
ひとひとりが為せることが、とても大きくなった時代。
そして、
パワーゲームがうまく行かないことを、徹底的に見せてくれた時代だったのかも。


友人が、Blogに書いてた。
あとから振り返ると、この9月から新しい時代がはじまったと想うのではないか。
ようやく21世紀が始まったような気がする・・・と。
なるほど、きっとそうだ。


21世紀って、どんな時代になるのだろう。


自発・調和・協働。
ありのままを、感じ・見出し・知り・活かしあう。
そんな時代になるのではないかなぁ。


ひとやものを支配したい・・・という執着は、たぶん、
弥生時代から引きずってきたであろう、あこがれなんじゃなかろうか。
19世紀までは、ごく限られたひとたちしか体験できなかった”支配”。
もはや、僕たち大衆も、”もの”を支配できる。”ひと”も、少なくとも悪影響なら、下手するとかつての王族以上に発揮できる。
その喜びも、むなしさも、僕たちはたっぷり経験した。
”支配”よりも”活かしあう”ほうが、はるかに喜びが大きいことも。


支配への憧れからの卒業。
それが、20世紀だったのかも。そして、
活かしあう喜びの探求。
それが、21世紀なのかもしれない。