HT千葉市川→カレー屋さん

10:10-13:00 ヒューマニティーチーム千葉市川 第50回!記念ミーティング。開始から3年で。
今回のテーマは「この人生で大切なこと」

参加者5名、どなたのお話を聴いていても、想起することが多い。このところ出会っていたキーワードたちのつながりが、かなりはっきり観えた。

  • 博愛・自由・平等
  • 尊厳
  • 自由意志
  • 自由と責任
  • 芸術家
  • ありのまま
  • 多様性
  • 創造力
  • GNPではなくGHP

蟻塚が”自然”に属するなら、ビルディングも。人間もそのいとなみも、自然の一部。

無生物も生物も、おなじ素粒子から出来ている。

もし無生物にも意思があるとしたら。
ちょうど彫刻家が、石から女神を掘り出すように、無生物の特質を感じ、発揮させることは、自由意志を表現しやすい私たち生物の責任なのかもしれないなぁ。

文化の違い

私の父は、重工メーカー退職後、化学会社に。
重工メーカーは、設計標準創りはぐっと進んでる。
化学会社は、事態急変時の対応とチームワークが見事。


多様な文化、多様な個性、多様な自由意志。
それぞれの尊厳を大切にし、それぞれの特性をおもいっきり活かす、そんな社会に。

レジの行列に気づかず、割り込んでしまう

僕の”ありのまま”への恐れ。調子こいてると、周りが見えなくなる・・・かも。結果、知らずに周囲に迷惑かけてるんじゃないか。
でも、高度に集中してると、すべてがみえる。
F1レーサーが、小石を感じるように。
バッターが、球がとまって見えるように。
テニスで一度だけ、強風下のクレーコートなのに、自分と相手がどう打ってどう返すか、5球先くらいまではっきりとわかったように。
アスリートが言う”Zone”
脳科学者や仏陀が言う”涅槃”

経済と幸せとの関係を模した カードゲーム案

フランスの啓蒙思想家たちが説いた、”自由・平等・博愛”が、ようやく実現しようとしている、
それが、私たちが”この人生”を生きている、今なのではないだろうか。


13:15-14:20 カレー屋

この茶碗は、私

って、どういう感覚なの?と僕に質問。
言葉では言い表しきれないけれど、あえて、いくつかの角度から説明してみると・・・

  1. この茶碗をどんなふうに感じるか、は、僕自身の投影
  2. もし茶碗に”ピッ”とひびが入ったら、自分も痛みを感じるような感覚。
  3. 創り手がどんな思いをこめたのか、どんなひとたちが使ってきたのか、感じるような感覚。
  4. 左脳の機能を失った脳科学者の体験。自我が液体化し、どこまでもつながっている感覚。”涅槃”
  5. ”人馬一体”。アスリートがZoneと呼ぶ体験。テニスで一度だけ体験したとき、相手も、風も、でこぼこのコート面も、ラケットも、ボールも、すべて”自分”と一体だった。

そのまま会得したいと希望した彼に、参加者のおひとりの実に巧みなリードで、カレーの器を使って実習。

なんだ、”自分”の定義を変えれば、変わるんだ!

そのとおり。

どの器にも、移せる。器に(銀色だから)周りの光景すべてが写ってる。あぁ、僕自身も。

僕は、すべてであり、すべての一部。
この世に存在するもの、どれひとつとっても、そのなかにすべてが含まれている。”神は細部に宿る”って、たぶんこのことを言い表してるんだろうな。




僕が観ている、理想の組織。

全体が今どうなっているか、リアルタイムに全員がわかる仕組みさえあれば、
ノールールで、各自の自由意志に完全にゆだねても、
最高にうまくいく。

実際は、”全体””リアルタイム””全員”って、どこまでもきりが無い。理想から程遠い分だけ、ルールや自由意志の制限が必要になってる。
ところが。
ほんのちょっぴりでも、現状よりも理想に近づいただけで、その組織はぐっとうまく行く。
うまく行ってる組織って、ほかよりもなにかしら、この3点で秀でている・・・とも言える。
道具立ては急速に整い、”全体””リアルタイム””全員”はどんどん深化している。


まとめていて気づいたのだけれど、アスリートが言う”Zone”の感覚を、もし私たちが発揮したなら。
それって、”全体が今どうなっているか、リアルタイムに全員がわかる”状態なんじゃなかろうか。
たとえば

この茶碗は、私

という感覚を磨くことで、身につけていくことは出来るだろう。
バンド演奏で、気配で息を合わせるとか、聴いている側も、空気を感じて反応を返すとか。

人類全員が、芸術家になる

って、各自の視点を表現し、交換し合うことで、ものの見方が拡大するという意義を感じていたけれど、
”Zone”の感覚を磨くという意義もあるのかもしれないなぁ・・・。





この茶碗は、私

僕の場合、無生物には、投影しやすい。創り手の意思も感じやすい。
赤ちゃん、動物、人間と、相手が固有の自由意志を、明確に表現しやすくなってくるほど、難しく感じる。
それはもしかしたら、
「俺は、おまえじゃないよ!」
という反応・抵抗が返ってくることへの恐れを抱いているのかも。


そして。
相手が、僕を自分だと感じるかどうかは、相手の自由意志。
それとは関係なく、僕は相手を自分だと感じることが出来る。
自由意志って、そういうことだよなぁ。
なんだ、恋愛や友情とおんなじだ(^^)


自由と平等の両立は、
自由意志の尊重と、”あなたは私である”の両立から生まれる。そんな感触をつかみました。
そして、どうやら僕にとっては、”抵抗への恐れ”を恐れないことがコツみたい。
赤ちゃんや動物相手だとうまく行くのは、抵抗される恐れを、ありのまま受け止め、臨機応変に対処する心構えで居るから、なんだなぁ。
おんなじことを、大人にもやればいいんだ!