日本社会は”未知”を恐れる・・・危険度そのものではなく(^^;

トロンの提唱者、坂村教授の、とっても秀逸な分析。ぜひ全文読んで欲しい。

 粗っぽく言えば、日本の文化−−というか日本人が一番恐れるのは実際の「危険」ではなく、それに「未知の」がつくことの方だという気がする。普通の季節性インフルエンザが原因で命をなくす人は日本でも毎年1万人ぐらいいるらしいが、そちらは「既知の脅威」だから恐れない。


 繰り返しになるが、だから日本のマスクは恥ずかしいといっているわけではない。家に入るとき土足で上がらないのも日本の文化なら、感染症流行時にマスクをしたくなるのも日本の文化だ。ニューヨーク・タイムズ電子版が「マスクに手洗い、日本は偏執狂」と書いたそうだが、「未知」でなく「敵」の脅威を感じたときの米国の対応も、米国以外からは「騒ぎすぎ」に感じられていた。しかしそれも、米国の文化と考えれば理解できなくもない。


(中略)

高温多湿で人口密度も高いという日本の国土条件からして、清潔さを大切にする文化的システムは十分な長期の合理性を持つ。


(中略)

 今回の件でさまざまなノウハウが現場から上がり、それはいつか来ると言われている強毒性鳥インフルエンザの変異など「本当の脅威」の時にきっと役に立つ。それで国としての抵抗力が増すなら、まさに今回の新型ウイルス騒ぎは日本という国にとっての生ワクチン接種。「マスクフィーバー」などの「副作用」は我慢の範囲だろう。


 抽象的な話をすれば、家畜などでよく知られているが、均質な集団は病原菌で簡単に全部がやられてしまう。生物が単細胞分裂という簡単な方法にとどまらず「性」という高コストなシステムを取り入れたのも、それによって生まれる多様性に防疫上のメリットがあるためという。だから、文化の多様性として、日本のように騒ぐ国と騒がない国のどちらもあってもいい。それによって人類全体としては必要な多様性が得られる。

毎日新聞 2009年5月31日 東京朝刊

僕の想う所を補足すれば。

  1. 「未知」を恐れるがゆえに、多様性を認めず、均質化に走る・・・そこが、日本の効率の高さでもあり、窮屈さでもあり、脆さでもあると想う。
  2. 文系と理系の断絶に、日本社会の構造的な問題があるのではないか。科学の視点で、文化的に語れるひとが、公衆衛生の最高責任者である必要がある。