美術教育の基本中の基本とされている、石こうデッサン。
ところが、現在、美術教育で用いられてるのは、日本・韓国・台湾など、ごく一部の地域。発祥の地であるヨーロッパでは、もはやほとんど用いられていないそうだ
・・・という話からはじまって。

輸入文化のスタイルがはっきりした理由もなしに定着し、いつの間にか絶対的な規範として伝承されること。これはわが国独特の文化的慣性であろう。

宮中祭祀へのこだわりや、改憲のなされにくさ、政権交代の起こりにくさなどにも、この慣性が作用している可能性がある。だとすれば、単に慣性そのものを問題視してみてもはじまらない。私はむしろ、そうした慣性の起源を理解し、その操作可能性を探るほうに強い興味を感じている。

僕も、とっても興味がある。
ほおっておくと、前例踏襲ばかりになりがち。変えたほうがいいと万人がわかっていることさえも、いざ変えるとなると大きな抵抗が生まれる。
色彩指定・・・
ところが、新たな”あたりまえ”になってしまうと、すんなり日常になってしまい、振り返るととてつもなく大きな変化が、一気に起きていたりなんてこともある。
携帯電話、プルトップ、吸殻のポイ捨て、茶髪、たまごっち・・・


起源。思いつくのは・・・

    • 人口密度が高い。
      • だから、”予測可能であろう”とする力が強く働く。均質・評価基準不変・昨日とおなじ明日・・・であろうとする力が。
      • ミスしたときの影響が大きい。つど判断するより、前例踏襲のほうがミスが少ない。
      • 権威を外部に求める
      • 本質・今・自然・・・よりも、まわりのひと、に目がいく

むろん客観的に見る目も必要であることはいうまでもない。だが芸は惚れて惚れ抜かなければ本当はわからないのである。そこを現代人はとかく忘れる。ましてや芸談をとるということは、プロが企業秘密をあかすわけだから、いくら信頼している相手でも自分に惚れていない人間にその深奥をあかすはずがない。

輿論と世論とは異なる概念であり、それを混同するところに、現代日本社会の病弊が潜んでいる