読響・第九 歓喜のうた「かつしか第九演奏会」

自転車に乗ったら・・・あらら、トップチューブにへこみがっ!!!
先日の強風で倒れた際、自転車置き場の鉄柱と衝突したんだろうか・・・かわいそうに。


テラス席からの鑑賞。身を乗り出したり、客席を観察したり、椅子に深々と腰掛けてふんぞりかえったりと、好きな格好で聴けて好きなんだけれど、響きは薄くなり勝ち。


指揮:下野 竜也
管弦楽読売日本交響楽団
バリトン:宮本 益光
テノール:中鉢 聡
メゾ・ソプラノ:坂本 朱
ソプラノ:国光 ともこ
合唱:新国立劇場合唱団

綺麗にまとまってたけど、特に印象に残らず。

うーん、熱演だし、やりたいことはよーく判るんだが、なにかが足りないような・・・なんだろう。
第2楽章半ばまでは、モーツェルトに引き続き、なんだか音につやが無いというか、ベールを一枚かぶってるようというか。指揮者の意図にあわせ、丁寧にダイナミズムを生み出そうとしてるんだけれど、こころに響いてこない。演奏者の顔が見えない。ダイナミックじゃない。
第2楽章半ば、僕が感知したのは、ビオラの若い兄さんが生気に満ちてきたこと。そこから波が広がるように、木管ティンパニコントラバスに表情が出てきて、ぐっと音が深みを増した。
第3楽章。のどかで穏やかで美しく・・・なのに、集中して聞き入るうち、一瞬ほんとに、気持ちが悪くなってしまった。音を、旋律のまま自然に走らせないような。”抑制”を強く感じる。
そして第4楽章。過去3つの楽章のテーマを振り返っていく。緩急・強弱・レガートとキレ、メリハリをはっきりつけた演奏でありながら、”抑制”をますます強く感じる。ある種、宮廷音楽のような響き方。枠にはめられているかのような。
そして、宮本益光さんがすっくと立ち上がり、「おお、友よ、こういった音ではない!もっとこころよい、歓喜に満ちた歌を!!!(もちろん、ドイツ語で)」・・・益光さんの声量から予想してた、朗々とした響きではなかった。が、説得力抜群。ぶわっと両頬に涙が走る。いやぁ、カッコいい!!!
そのあと、ソリストも、合唱も、実にカッコいい。ダイナミズム満点。とてもクールでダンディ。ひとりひとりの顔が、はっきり浮かび上がるかのような歌唱。


こころ動かされたのは、間違いない。かなり長時間、割れんばかりの拍手を続けた。丹念にパートごと紹介し、合唱団が舞台袖に下がるまで。ブラボーの声もそこここからあがったし、テラス席は僕も含めて、途中からスタンディングオベーションする人も多かった。
なんだろう・・・たぶん、こころに響いたものが、”歓喜”や”満足”や”幸福”ではないから、なのだろう。むしろある種の、”厳しさ””困難さ””覚悟”のようなものが響いてきた。それは美しいけれど、暖かくは無い。個性的だけれど、伸びやかではない。天真爛漫さと、どこか対極にあるような・・・。


そう。吹奏楽部の定期演奏会の、懐かしく甘い一体感とは、ある種対極。
プロの個性と個性がぶつかりあい、競い合い、生み出すひとつの美しい世界。気高くも厳しい、サムライの決闘のような。これも、歓喜なのだろうか。




昨日、東海大浦安の校長先生は、第一次大戦のクリスマス休戦の話をされた。
先週だったか、毎日新聞の日曜連載小説は、日露戦争旅順攻略線の、遺体収容休戦の話だった。
全力で殺し合いをしてきた同士が、肩を並べ、互いをたたえあったり、贈り物を交わしたり、歌をともに歌ったり。
互いになんの個人的恨みも無い、むしろ敬意を払いあう同士が、また翌日から、全力で殺し合いをする。
・・・いまを生きる僕からは、想像を絶する不思議な世界のようにも想えるけれど、武士道って、騎士道って、そういう世界から生まれているよね。



ハレルヤコーラスのような、大いなるものをひたすら称えることによる、陶酔と一体感。
念仏も、ロックコンサートも、もしかしたらディズニーのショーも?、そうかもしれない。
自分の個性を、世に問うて生きていく覚悟はあるか?
現在の社会に横たわる困難を越え、歓喜へとたどり着く覚悟はあるか?
重い課題を提示されたような・・・。



いや、次男が公演に間に合っていれば、全然違う印象だったのかもしれない。
先輩との送別レセプションを優先した次男。友愛に満ちた世界。
そしてやがて、わが家庭から飛び立っていく。
その寂しさを、投影したのかもしれないなぁ。