欲深いということ

昨日は、キャンドルライト・リフレクションズも、花火も、20:40のプレシャストレジャー・オブ・アグラバーも、きっと素晴らしいに違いない・・・と判っていつつ、なぜだか欲張ってはいかんような気がして、観ずに帰ることにした。


その判断は、幸せだったんだろうか、どうなんだろうか・・・。


あんな好気象条件、2度と出くわさないかもしれない。日曜夜のお客さんは熱い。出演者の気迫も素晴らしかった。


わくわくしてハーバーで待つ人々。こころ残しながら家路を急ぐ人々。ミラコスタ越しにしゅぱっと上がり、空気を輝かせたパイロ。給油中に、音だけ聞こえた花火。おいしいパスタ。
・・・帰路を急いだからこそ、出会った物たち。


そして、パスタを食べ過ぎて、胆石痛になったわけで(^^;
もし、TDSで夕食を食べていたなら、今日の胆石痛はなかったかも。やっぱり帰らなきゃよかった?!?


答えはわからない。
胆石痛の予兆がする中で、こんなことを思った。
美しい風景を、ずーっと24時間365日、そこに立ち尽くして観ていたら・・・それでも折々に移り変わっていく。飽きるだろうか、満足し続けるだろうか。
おいしい料理を、ずーっと食べ続ける・・・これは、身体を壊すだろうなぁ(^^;
幸せを追求する。幸せを感じさせてくれるもの・美しいもの・楽しいことで、人生を埋め尽くそうとする。果てさて、埋め尽くしたなら、当たり前になって飽きちゃうんだろうか。


マズローの説のように、より高度な幸せへと進む・・・のかもしれない。
幸せの追求と、貪欲とは分けて考えるべきなのかも。
食べすぎ・観すぎ・中毒状態というのは、そもそももはや、幸せの追求じゃなく、不幸せなんだよな。


身体や自然の「良い加減」のなかで、あの要素に色濃くふれたり、この要素に傾いたり。
貪欲が過ぎると、「良い加減」感知回路が閉じちゃうんだろうなぁ。
いろんな要素を体験することが大切だとはいえ、熱すぎるお湯も、冷たすぎる氷水も、身体を壊してしまう。お菓子の食べすぎは毒・硫酸のお風呂にはつかれない。


胆石痛って、身体の姿勢で幾分楽になったりして。
でも、同じ姿勢を長く続けていると、じわじわ痛くなったり。
そこで、思い切ってほかの姿勢を試してみる。と、痛みがひどくなるかのように見えて、でもその先にもっと楽になるポジションがあったりもする。
安住しない。いろいろ試してみる。これも大切だよなぁ。


結局ね、感覚と感性を磨くことに尽きるんだろうな。
そして、時々疑ってみる。惰性になっていないか、中毒になっていないか、麻痺していないか・・・って。あえて未体験のジャンルに踏み込んでみたり。このあたりが理性の役割なんだろうなぁ。