Be-Do-Have

心理学者のヴィクトール・E・フランクルさんが、ユダヤ強制収容所での体験から到達した概念だそうです。


写真撮影の上達を例に取りましょう。
× have:素敵な機材を買い揃えて→do:写真を撮りまくれば→be:素敵な自分になれる
× do:写真を撮りまくって→have:素敵な作品が出来上がれば→be:素敵な自分になれる
○ be:愛と情熱に燃えた自分が→do:適切な機材を選び、技量を磨き、写真を撮りまくれば→have:素敵な作品が出来上がる


愛と情熱があれば、
どんな写真が撮りたいのか、はっきり見える。
だから、どんな性能の機材が必要で、どんな技量を磨けばいいかが、はっきり判る。



うるふさんの作品に、このことが良くわかる1枚があります。
ポルト最終公演の連凧の写真。


うるふさんのあの機材でなければ、あの暗さであの構図で高速に動き回る凧を写しとめられない。
しかもよく見ると、凧はブレずに写っているけれど、背景は斜め右上がりに流れている・・・複雑に旋回しながら飛ぶ凧を正確に追尾しながら、ここぞという構図になったところでシャッターを押してる。
あの機材をもってしても、カメラを固定しておいて、凧が入ってきたところでシャッターを押したんじゃぁ、ブレてしまう暗さだった。


試してみればすぐわかるけど、右から左に動く被写体を追捕するのだってなかなか難しい。
あの重い機材で、あの複雑な動きを追捕するなんて、あきれるほど凄い技量・・・。



愛と情熱があるから、あの機材を選び、その性能をフルに発揮する技量を磨き、あの素敵な作品が生まれてる。
愛→機材+技量→作品。


適切な機材と技量がなければ、素敵な写真は撮れない。愛と情熱があっても。
・・・でも、愛と情熱を持って進めば、いずれ適切な機材を手にし、技量も磨かれる。これがbe-do-have。
たとえ機材と技量があっても、愛と情熱が伴わなければ、素敵な写真は撮れない。そもそも自分自身が満足しない。これがhave-do-beやdo-have-be。
愛は、haveやdoの結果得られるものではなく、スタートであり、駆動力であり、自分の中から湧き出ずるもの。


ハントさんという米国人トレーナーから、フランクルさんを訪ねたときのお話を伺ったことがあります。

ユダヤ強制収容所では、haveやdoは極限まで制限された。なにも自分たちの自由に出来なかった。持てなかった。
haveやdoに人生の基盤を置いていた人たちは、殺されるよりも前に、あっという間に自我が崩れ去り、身体を壊し、ぼろきれのように死んでいった。
そんな強制収容所でも、beだけは奪うことが出来ない。beだけは自分次第。beに人生の基盤を置いていた人たちは、最後まで気高く誇り高く生き、その人らしく死んでいった。

フランクルさんの古典的名著「夜と霧」、未読の方は是非読んでください。
生き辛さを感じている人も、人生順調な人も、大きな学びを得ることでしょう。
全人類必読の著(*^^*)だと、僕は想ってます。