規範

ユダヤ教キリスト教イスラム教って、おなじ神・・・旧約聖書に描かれている「神」を信じてるわけです。
ただ、いろんなルールが違う。儀式をどんな風に進めるか、礼拝はどうするか、誰を聖者として扱うか、旧約・新約・コーランどこまでを教典として扱うか、偶像崇拝は可か否か、妻は何人までOKか、安息日の扱いは、食べ物は・・・規範の体系が違うわけですね。


3つの宗教のどれを信じているかで、人間の価値なんて左右されない。
たとえばイスラム教を信じてる人が一番偉いわけでも、一番卑しいわけでもない。
イスラム教徒よりもキリスト教徒が上で、キリスト教徒よりもユダヤ教徒が上で、ユダヤ教徒よりもイスラム教徒が上・・・なんてじゃんけんみたいな関係でもない(^^;;;
幸いなことに、日本人の大半は、ここまではすんなり理解できると想います。
・・・たぶん日本人のこの特質って、とっても貴重で、世界に貢献できうる価値だと想うのです。


さて。この3つの規範体系の違いは、客観的に眺められても。
自分自身がどっぷりと漬かり込んでる規範体系については、目が曇り勝ちになります。
自分と違う規範体系で生きている人に、嫌悪感を抱いてしまう。「生理的に嫌い」なんて言ってしまう。宗教差別や人種差別の根って、ここにある。
これ、「感性」じゃなく、「感情」の働きです。そこには、脳みそが大きく作用しています。


いっちばん判りやすいであろう例として・・・セックスに関する規範を取り上げましょう。

  • 私は実は・・・「婚外性交渉は一切しない」という規範を採っています(^o^)
  • Bさんは、「婚前交渉OK。ただし、ステディーな関係でだけ」
  • Cさんは、「互いにハッピーになるなら、sexがんがんOK」

さぁ、誰が一番立派でしょう!・・・誰でもないんです、ほんとは。
でももしあなたが、違う規範を採っていると誤解されてたとしたら。「えぇっ、あなたってxxだと想ってた!」って言われたとしたら。なんだか自分の価値が損なわれたような気がしませんか?
また、違う規範を採ってるひとに、嫌悪感を感じたりはしませんか?


ここに例示した3種の規範、それぞれに合理性と欠点があります。

  • 「婚外交渉を一切しない」ならば、揉め事も、性病も、望まない妊娠のリスクも最小でしょうね。でも、セックスという素晴らしいコミュニケーション手段を、ごく限られた範囲でしか使わないことになる。
  • 「互いにハッピーならガンガンOK」ならば、幸せな体験はうんとたくさん生み出せるはず。その代わり、リスク管理はしっかりと配慮しなければいけません。
  • 「ステディーな関係でなら」という規範は、両者の折衷案。「ステディー」の定義を自分なりに厳格に持っていれば、パートナーチェンジの可能性を持ちつつも安全だ・・・とも言えるし、リスク管理はCさんとほぼ同等にしなきゃいけないのに窮屈だ・・・とも言えるのかも。

どの規範体系を採用するにせよ、その長所が「自分と周囲の幸せにつながる」と判断して採用している。そして、欠点を補うべく配慮している。
違う規範にぽんとジャンプしたなら。きっと新しい幸せがあるはず。と同時に、その規範なりの配慮が、とってもわずらわしく感じられることでしょう。しくじると、たちまちリスクが現実化するかも。
違う規範を採っているひとって、自分の安全を脅かすかのように観えてしまうのかもしれませんね。無意識のうちに。


技術進歩やニーズの変化で、どのシステムを採用する人が増えるかはどんどん変わります。ただし、採用者が多いシステムは、廃れるのに時間がかかったりする。慣性が働くんですね。システムの自己保存機能が働いたりもします。http://d.hatena.ne.jp/BigLove/20060310#1141991542
規範体系もシステムですから、同じことが言えます。
たとえば例示したセックスに関する規範については、避妊法や性病防止策の発達、経済力向上、自由時間の拡大、自由意志の尊重・・・といった変化からすれば、Cさん流がどんどん増えていくはず。「紺外交渉封じ込め」システムの慣性と自己保存機能はまだまだ働いていますが、例えばここ20年急速に「婚前交渉してます」って堂々と言えるようになりましたよね!オールナイトフジ(^^;;の頃はまだ、TVで堂々と「私、処女じゃありません」とは言えなかった気がするなぁ。


音楽に関してもそう。
新スタイルが生まれ、その斬新さが波風を立てる。既存社会から批判される。
たとえばラグタイム。ジャズ。ビバップ。ロックンロール。ハードロック。パンク。ヒップホップ。
やがて、そのスタイルにのっとった表現がたくさん生まれ、浸透し、あたりまえの存在になる。


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