実体験・共感・想像力

母の実家の消息がつかめない。なにか為したいけれども為すすべがなにひとつ無い。茨木市から救援に向かった叔父に全てを託して、ただ祈るのみ・・・ほぼ丸一日間の、あの感覚。ついこの間のことのように覚えています。


とはいえ、映像から現場のにおいはわからない。ましてや、地震の瞬間の恐ろしさは。
実体験していない私は、ただただ想像します。でも、決してわからない、わかりはしない。体験された方の、ほんとの気持ちは。


わかりはしないけれど、せめて想いを馳せていたならば。
耐震強度を偽造しようとは考えない。それだけでも意味があるだろうと想うんです。




とてつもなくつらい体験、恐ろしい体験、悲しい体験って、淡々と情景を描写するように語られることが多いです。そのつらさを聴き手に味あわせたくない・・・という語り手のやさしさが働くのかもしれません。


一方で、素晴らしい体験、素敵な体験、美しく楽しい体験って、熱く臨場感たっぷりに語ってださることが多いですね。
そして、響きあうような体験を自分もしていると、とってもありありと、その時を追体験することが出来る。
たとえば・・・さよならエレクトリカルパレード。私は当時、息子が幼かったため、まったく体験していないのですが、その場の空気をありありと思い浮かべることが出来ます。友人が目を潤ませながら「あれは凄かった・・・」と二言三言。そこから言葉以上のものが伝わってきてしまう。でも恐らく、引き合うような体験の無い人には、ちんぷんかんぷんだろうと想うんです。


だから。
素晴らしい瞬間を、数多く実体験しておくことって、とてつもなく重要。
それが種になって、さまざまな素晴らしさが、また観えてくる。体験がさらに拡がる。深まる。
自分自身に、そして、子供たちに。

強制的な力ではなく魅力で選ばれていくような力は、ときとして「ソフト・パワー」と呼ばれる。