正当性への執着は、なぜ生まれるか

前項の記事を書くきっかけとなったのは、katuoさんのブログSo-net blog:こころの肥溜めです。
久しぶりに拝読したら、ご両親との関係に、勇気を持って大きく踏み込まれている。
あともう一歩!そのポイントが、下記です。


So-net blog:こころの肥溜め:人格分類の要点
この記事でkatuo さんは、「交流分析」で使われる分類を、要領よく紹介されています。
ただし。
「I am OK」を「私は正しい」、「I am not OK」を「私は間違えている」と翻訳して、記述されている。


でも本当は。
「I am OK」と「私は正しい」は、違うんです!
正しいけど、I am not OKとしか思えないこともある。
間違っていても、I am OKなんです。人間って、そもそも間違える動物だから。


ところが。
katuoさんのお父さんは、「私は正しい=I am OK」だと、思い込んでしまっている。
だから、子供に対して、自分の犯した誤りを認められない。謝罪できない。
誤りを認めたら、「I am not OK」になってしまう・・・と思い込んでしまっているから。
ほんとはただの思い違いなのに。


ただそれだけのことです。
そして、katuoさんも、そういう親御さんに育てられたから、正当性=存在基盤だと、思い込んでしまっている。
だからつい親御さんに、katuoさんの正当性を主張してしまう。
すると親御さんは自己存在の危機を感じて、正当性を自分に確保せんがために戦ってしまう。
「I am OK, but You are not OK.」
「No!No!!No!!! I am OK, but You are not OK.」って。


でもね、正当性なんて、基準の立て方・なにを、より大切と設定するか次第で、如何様にも主張できる。
だから、正当性を主張せんがための会話は、不毛です。
「なにを、より大切な価値とするか」のすり合わせをし、それを創り出すための会話をすることで、はじめて、なにがより目的にかなっているかが判断できる。


katuoさんが、「私は正しい=I am OK」という誤解を手放したなら。
「正しかろうが誤ってようが、僕も他人も、OKなんだ」と腑に落ちたなら。
ただ、それだけで。


まず、世界が変わって感じられます。
受容がおきます。
たとえば、つい正当性を主張したくなってしまう自分も、愛しくなる。
すると、お父さんが正当性を主張したがっても、それを慈しむ目で見ることが出来るようになります。
「I am OK, but You are not OK.」
「Yes! You are OK, and I am OK too.」
そして、お父さんがほんとうはなにを大切にしたいのか、自分はなにをより大切だと想うのか、に焦点を当て、共通の目標を見出すことが出来るようになります。


やがて、夢が現実になる。
katuoさんが想い描く理想の親子関係が、現実になる。
「私は正しい=I am OK」という誤解を手放しただけで。
信じられないかもしれません。でも、こういう事例、たぁくさん知っています。
かなうべき夢は、かないます。
それが自然の理だから。
親御さんも、同じ夢を、心の奥では望んでいるから。


親を、外界を、変えようとしなくていいんです。
自分のものの捉え方が変われば、現実は変わる。
そんなものの捉え方を教え込んだのは、たしかに親御さんかもしれない。
でも、おとなになった今、私たちは、自分で自分のものの観方を、変えることが出来る。


世界は、自分次第で変わる。
その感触をつかむには。
真剣な実例だと 「夜と霧」isbn:4622039702
笑いながら理解するには 「ブッタとシッタカブッタ」isbn:4840107718
あたりがお勧めです。既に読まれてる方も多いと思いますが・・・。