他者は鏡

今朝、私の隣に座った人は、何かを口の中に入れたと思ったら、その後、その何かの包装紙を、電車の座席の背もたれと座る部分の隙間にねじ込んだ。(あの直角の部分で分かるかしら?)
こんな光景を見るのは、よくあること。
(中略)
電車の中で、ゴミをねじ込んでいる奴・放置する奴を見ると、どうしていいかわからなくなる。
「私がそのゴミを受け取ってゴミ箱に捨てればいい。」
それは分かっているけど、体が動かない、声が出ない。
いつも、「余計なことをしなくてもいい」「何か反論されたらどうするの?」と言葉が頭をよぎる。
それで、また、自分が悲しくなる。何にもしない自分に。

ちなみに僕は、そういう場面にほとんど遭遇しないです。
ゴミが放置されてるのを見つけたら、手がふさがっていない限り、拾ってゴミ箱に捨てます。
「反論されたらどうしよう」なんて思い浮かんだことさえなかったな・・・たぶん、ゴミを放置する人を責める気持ちがないからでしょうね。「奴」と見下す気持ちもないし。


そういえば、ディズニーランドなどでの「マナーの悪い人」の多さを嘆く声を、よくwebで見かけます。でも、私自身は被害にあったことが、ほとんどありません。開園待ちやショー・パレード待ちをあまりしないせいもあるのでしょうけれど。
開園時は、走る人をたくさん見かけますが”ご苦労様、でも、怪我したり・させたりしないようにね・・・”と祈りながら、自分たちはぶつかられないように歩きます。
ごくまれに割り込みに出くわしても、大抵は穏やかな気持ちで、それがルール違反だということをお教えします。聞かなきゃあえて「がつん」と言うことも、ありますけどね。
遠方から来て、少しでもたくさんのことを体験したくて・・・でもルールなんて良くわからない。そんな事情が各々おありだなって感じるので腹は立たない。公平さを保ちつつ、可能な限り一緒に楽しめるような答えを探します。で、不思議と答えが見つかるもんです。


なぁんて、偉そうに書いてる(^^;;;私ですが、今、一点気にかかってしまう反応があるんです。
リズム・オブ・ワールドとか、ミニー・オー!ミニーといった、参加型の賑やかなショー。
手拍子したり、思わず「いぇーぃっ!」って叫んだり、すばらしいパフォーマンスをサムアップで賞賛したり・・・しちゃうわけですよ。ほかのゲストも盛り上がる!パフォーマーもそれに刺激される!!好循環!!!見知らぬゲストが「いやぁ、おかげさまでほんとに楽しかった」ってわざわざ言ってくださることもしばしば。
ミニー・オー!ミニー、一回だけ2列目まんまん中で観た事があるんです。でびっくりしたのは、ゲスト参加ダンスの時。「はーい、ミニーにお尻を向けてくださーい」で後ろを向いたら、真ん中ブロックのお客さんほぼ全員、ちゃんとお尻向けてました・・・って、その盛り上がりの凄さ、わかる人しかわかりませんわね(^^;;;あのこっぱずかしいシーンでそんな参加率、奇跡的なんです。
ところがですねぇ・・・振り返って私を睨む人も居るんです。リズム・オブ・ワールドで1回、ミニー・オー!ミニーで2回。それぞれ、中学生の男の子・20代男性・6歳くらいの女の子。「なんて非常識なことするんだ、この人は」って責められてるように感じる。私の中に罪悪感が生じる。ちょっと音量下げようかしらん。でも、相変わらず睨み返してくる。先方が盛り下がってるのを感じる。いやぁ申し訳ないなぁ、でも・・・こういうショーで黙って手拍子もせずにじっと見てるほうが、非常識だろ!・・・いやでも、残念だなぁ、双方楽しめたらいいのに。・・・・・結局、いつもどおりすっごく楽しみつつ、同時に寂しさと悲しさと葛藤と、ちょっぴり怒りも感じて。


で。
3回目ですからねぇ、その6歳くらいの女の子が、どんな体験だったのか、想像してみました。
隣にはビデオを構えたお父さん。そのむこうには手拍子するお母さん。
前には大人が座っているので、ちいさな女の子には、舞台の様子はしっかりとは見えません。一生懸命覗き見しながら・・・。
わ、うしろのおじさんが「いぇー!」とか言ってる!珍しいなぁ・・・変なおじさん。
あ、こっちをちらっとみて二カッとした。
わたし、会場ではしっかり観えないから、家でビデオ観るの楽しみにして、音が入らないよう静かにしてるんだけど・・・台無しになってなきゃいいなぁ。


この想像、ほんとにそうかどうかはまったくわかりませんよね。
紛れもなく言えるのは、私の中のイメージだ・ということです。
そして。
私自身にこういう側面があるから、それを「投影」して、こんなイメージを描ける。
今回のように、そのイメージが、自分に戦いを挑んでいるように感じるならば、それは、自分の中に、意識の外に追いやってる自分が居る・・・ということを、実は示しています。


今日読んだアーノルド・ミンデルさんの著作の解説記事に、「投影」と「認識のエッジ」を関連付けたものがありました。(探し当てたら紹介しますね)

その他人って、天然さんのイメージした他人。実は、天然さんの中の、意識外に追いやってる部分を投影したものです。つまり、それも天然さん自身。

その他人の立場になって、物事を見、感じてみてください。
すると、天然さんの意識が拡がります。意識外に追いやってた天然さんが、合体する感じ。
「許しがたい他人」のイメージも、そう。おんなじように、その立場になって味わってみて!

認識のエッジの外にある自分を、他者に投影している。だから、投影されたイメージの立場に立って体験を味わうと、認識のエッジが広がる・・・ってことなんです。


今回、6歳の女の子像を体験してみて。
「変な人!」って素直に想うことへの抑圧が解けました(^^)本編のショーよりも、その変な人を観察しちゃうことへの抑圧も!
親と子で一緒に楽しみたいって願望と、でも難しいんだよなぁというあきらめと、ならば生で楽しむことを犠牲にしても子供の楽しみを創ってやりたい、という気持ちが僕の中にあることもわかりました。
そしてね、もし次にそんな女の子に出会ったら。今回以上に強い愛おしさを感じることでしょう。たぶん、仲良くなれちゃう。それは単純に、僕の中の抑圧が解けたからなんです。


天然さんにも、そんな可能性が。