浄と不浄

友人・天然さんのBlogから。

私が、インドに興味を持ったは,小学生の時、先生が「インド人は、右手はきれいな手、左手は汚い手と考えています。」と言っていたからです。

私は???。

だって、お祈りする時、両方の手を合わせるでしょ?きれいな手と汚い手を合わせたら、どうなるの?
神様にお祈りをしているのに、汚い手も使ってお祈りをするのは何故?

これは天然さんならではの疑問。
だから、まずは天然さん自身の答えを、天然さん自身が探求することが大切だ・・・と、僕は想います。
すると、なぜ天然さんが、心にこの問いを浮かべたのかが、はっきり見えてくるはず。それは、なにか大切なことにつながっているはず。


それはさておき、僕の中の答えを、ここに書いておきますね!

泥があってこそ、清らかな白い蓮が咲く。

・・・これはお釈迦様の法話だったかな。
清らかなものの中にも、不浄なものの中にも、どちらにも仏性はやどっている。
神様にお祈りするのに、不浄な左手を使って、なぜいけないの?
きれいな手と、汚い手を合わせて、なぜいけないの?
あたりまえではないですか!「清らかなもの」をある基準でくくりだせば、その外側は不浄なものだ。いつも2つは、対で存在する。
そして、どちらの中にも必ず在る仏性を、見出せるか否かは自分次第。



もっともね、そもそもインドで、両手をあわせてお祈りしてるかどうかを、私は知りませんが(^^;;;
左手が不浄だとされているのは、たしか「おトイレでお尻を拭くのは左手」だと決めてあるからではなかったかな。そして、食事するときには右手を使う。左手は使わない。
そんなふうに、左手と右手との役割を峻別することで、伝染病を予防する・・・という意味が、実用的にあるんだと想います。「交差汚染の防止」ってやつですね。手をしっかり洗えない環境下では、かなり効果的。
だから・・・お祈りするのには支障ないよね・左手を使っても。


どういう基準で「不浄」なのか。
大腸菌数が1平方センチメートルあたり2万個以上になりがちだから不浄なのだとしたら、食事するには問題だけど、お祈りするには問題ない。
「正しさ」のお話と同様、「どういう目的に照らして、なぜ不浄なのか」を問わずして、なんにも語れないよね・・・ほんとうは。


でもね。我々人間は、
「とにかくあれは不浄。だから、触れると穢れる。滅ぼしてしまえ」なんていう安易な決め付けと、分断を行いがち。
「あの子、キモいから、そばに寄らないようにしよう」
JR西日本は、ろくでもない会社だから、そこの女性運転手を蹴り飛ばしてしまえ」
被爆者やハンセン氏病患者に近づくと、穢れがうつるぞ!」
「あの子は特殊部落の子。お友達になっちゃいけません。」
ユダヤ人は、強欲な劣等人種だから、殲滅してしまえ」
・・・どれも、「左手は不浄だから、合わせたら右手が穢れちゃう。ましてやお祈りに使うなんてダメ!」っていう思考と、おなじ構図ですよね。


それらはたいてい、自分の心の抑圧の投影です。
たとえばナチスドイツ時代のユダヤ人迫害。お金持ちに対する羨望を、汚らわしい心の動きととらえ、感じて居るのに感じないふりをする。いつしか、お金持ちの存在自体が、汚らわしい、あってはならないもののように感じてしまう。
たとえば部落差別。しんどくて大変な仕事を担ってもらっているという申し訳なさを、感じているのに感じないふりをする。いつしか、そういう仕事をしてくれている人々自身を、気にかけなくてもいい、汚らわしい、取るに足らない存在だということにしてしまう。

だから。
すべてを愛するって事が、とっても大切。
愛をどこまでも拡げ、どこまでも深めるって事が、とっても大切。
自分のすべて、素敵な体験も居心地の悪さもすべてありのままに感じ、愛したとき、自分をとりまく世界がとってもクリアに観える。深く感じられる。
(中略)
不安をも愛する。すべてを愛する。愛をどこまでも拡げ、深めていく。

その大切さの、これは一例。
浄も不浄も、愛する。どちらの中にも、仏性を見出す。
すると、それらをどう活かし、どんな素敵さを生み出せるのかが観えて来る。


なぁんて記事を書いてたら、「OLCが右翼団体の息のかかった会社に、本社清掃業務を委託していた」というニュースが。ふぅん。偶然じゃあないな。


もうひとつ。ちょうど書き終えてみたら、愛と不安に、響きあうテーマの素敵なトラックバックが。

なんとなく、愛する物と愛さない物を完全に切り離せば全て上手くいくような目測をしがちです。
宗教戦争もその一例だと思います。

まさに、そのとおり!
この「切り離すことで上手くいく」ような誤解こそが、ありのままを感じることを妨げ、抑圧や差別や抗争の原因になってるんだなぁ。


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