ありのままを観る

ありのままを、自分の目で、しっかりと観る。

観れば観るほど、観えていない領域がたくさんあることがどんどんわかってくる。
ソクラテスの言う「無知の知」というやつです。
知れば知るほど、自分が無知だということが判ってくる。謙虚になってくる。

自分の目で、ありのままを観ようとしないひとは、自分が無知だということにさえ気づかない。そして傲慢になります。

またまたちゅーりっぷさんを題材にすると。

小さい頃から父はほとんど夜家にいなかった。
私は何処の家も「お父さんは夜いないのが当たり前」だと思っていた。
帰ってくるといつも酒くさくてそんな父が嫌いだった。
お店はいつも母がやっていて、父は定休日でもないのにゴルフに行ったりしていて、私たちの学校が長期の休みになると、母が定休日に私たち3人を近くのデパートに連れて行ってくれたりした。
何度も父に文句を言ったことがある。
「父さんはいつもお店母さんに任せて、ゴルフ行ったり飲みに行ったりで母さん大変でしょ!」と言うと、
「馬鹿!接待だ!こっちだって大変なんだ」と言っていたけど、酔っ払って帰ってくる父を見て大変そうには見えなかった。


父が入院した日に「1年入院するかも」と兄に話をしたら
「そんなに父さんが入院してたら店つぶれるぞ」
「仕事は父さんが持ってきて成り立ってるんだから」と言われました。
母にも「お父さんがそんなに入院したら店閉めなくてはいけないかも」と言うのです。

私は今まで父がいなくても母がいればお店は大丈夫だと本気で思っていました。
自分が情けなくなりました。

酔っているお父さんが「好きか・嫌いか」ということと、お父さんが家業を成り立たせることにどれだけ貢献しているかとには、まったく関係が無いですよね。
でも、酔っているのが「嫌い」だと、「貢献していない」ように見たほうが都合がいい。だから、見たいように見てしまう。
冷静に、大人の分別でありのままを観れば、お父さんがどれだけ家業に貢献しているかなんて、簡単に観えるはずなのに。でも、知ろうとしなかった。知りたくないから。

私は結婚式の日に夫に「必ず幸せにする」と言われ
「この人は私を幸せにしてくれるのだ」とずっと思っていた。

実はそのとき、僕たちは「彼があなたを幸せにすることなんて出来ないんだよ」と話したんです(もしかすると、仲人挨拶の中でも触れたかも)。そしてそのあと、お父さんからちゅーりっぷさんに「幸せは自分のこころが決める」と刻まれたキーホルダーが贈られたのを観て「ほら、ね!お父さんもわかってる」と笑った。でも、それは、覚えていない・・・。
そして、「夫が結婚式でああいったせいで、夫が私を幸せにしてくれるもんだと思い込んでいた」・・・いえいえ、ちゅーりっぷさんが聞きたい情報だけを選んで、覚えているだけなんです!


お父さんは高熱を出して苦しんでる。でも、おかあさんが心配してないから大丈夫!・・・これも、都合のいい情報だけを選んで、重視してる。
もしかするとおかあさんは、お父さんの気力を振るわせるという意図を持って、お父さんの前では心配してないふりをしてただけ、かもしれない。ちゅーりっぷさん自身が、お父さんの深刻な状況を感じ取りつつ、でも、気力を振るわせるために心配していないふりをすることだって、出来うる(そうすることが効果的かどうかは別にして)。


ちゅーりっぷさんのみならず、わたしたちは、自分の見たいように世の中を捻じ曲げて見てしまう。記憶してしまう。悪人はどんどん悪く見え、善人はどんどん良く見える。安心したいときは危険に目がいかず、心配でこころを満たしたいときは不安の種をいっぱい拾い集める。立派で居たいときは実績をかき集め、卑下したいときは失点ばかりに目をやる。


ありのままの現況を自分で感じ、最善策を探し、ふるまう。
見たいように現況を解釈し、ありのままの現実を突きつけられ、ふきだす感情に行動を左右される。

どちらの在りかたが、素敵を創れるでしょう。
感情に左右されて右往左往するちゅーりっぷさんも、可愛いらしいんですけど(^^)