一切皆苦 かなぁ???

ユリーカ!〜仏陀の悟りに到る道〜: 苦のみ真実。苦のみ真理。 http://mind.moo.jp/cgi/mt/archives/2004/11/post_102.php より
ううむ、これ、僕の直感的理解と反するなぁ。釈迦の言葉がインド-中国-日本と伝わる過程で、どこかで誤訳してるんじゃないかなぁ(^^;

《世のこと すべてをうるわしと見
こころねの赴くままに任せる者。
かかる人を
魔の手はとらえん。》
――釈迦

こころね」って、「魂」とほぼ同義語として僕はとらえてしまう。で、魂の声を聞き、魂の赴くままに任せると、ものごとの本質が顕に観えてくる・・・という実体験をつんでいます。
こころねの赴くまま」ではなく、「感情の赴くまま」なら、これは魔の手にとらえられちゃうよね。それはわかる。実例もしばしば目撃する(^^;;;。
要は、「こころね」と「魂」は違うってことかな。「こころね」は、むしろ「マインド」に近いのかも。


世のこと すべて、本質はうるわしい・・・と観えてきてるんだけれど。
本質ではなく、「こと」ってのがミソなのかなぁ???

釈迦は、「人生は苦なり。世界は苦なり。
苦のみ真実。苦のみ真理。一切皆苦なり」と言い放つ。
これほど挑戦的かつ革命的な思想は古今東西類を見ない。

えぇえぇええぇぇぇぇつっ???「苦」から自由になってる瞬間なんて、人生にいくらでもあるじゃん!!!そもそも、悟っちゃった人には人生がないの?世界に属さないの???この世界に属さないんだってことにしてあるんだろうけれど、「悟っちゃった人も含めて、世界」ってほうが、理解しやすいような気がするなぁ。


「人生は愛なり。世界は愛なり。
愛のみ真実。愛のみ真理。一切皆愛なり」だと、僕には観えている。


でね、江戸時代までは「愛」って否定的なニュアンスが強い言葉だったんだって。
「執着」に近い。「愛」こそが、諸問題・「苦」の源。
明治になって、「博愛」という概念が導入されたことで、「愛」のイメージが変わったんだそうな。


僕たちは愛の視野を「むなしい思考パターン」で限定してる。だから、執着を生み、苦や争いが起きる。
智恵のはたらきで、その「むなしい思考パターン」に気づき、愛が、より大きく・深くひろがると、ひろがった分だけ執着から自由になる。より素敵な現実を生むことができる。
自分の愛の大きさを問い、より素敵な現実を生む作業を繰り返しているうちに、どんどん「むなしい思考パターン」がくつがえされ、自由になっていく。
・・・僕にはそんな風に観えています。


いわんとしてることは、たぶん同じだと想うんだよなぁ・・・。