身体感覚と智恵
まずは関連urlをメモ。「何を人生の価値とするか」に抜きがたく結びついてる。
偶然のようにさりげない、
人とのやりとりがすきだ。
偶然のなかの必然としか思えない、
人とのつながりを確認する行動だけが、
私を前にすすめてくれる。
同感です。
そして「人と」のみならず、虫・風・木々・街・・・じぶんを取り巻くもの全てとじぶんの身体とのやりとり、じぶんの心深くと身体とのやりとりも、私を前にすすめてくれる。
価値だの、意味だのを問うことは実は、昼の日中にちょうちんをもって神をさがすようなものだ。ちょうちんをけせば、実はそこにあるものなのかもしれない。ほんとうは、探すことがで意味なないくらいに自分にくっついているものなのだ。自分と切り離すことのできない血肉が自分の意味だ。
そう、きっといまそこにあるのは、ただ人間の身体だけ。
人間を身体(物質・ハードウェア)と魂(エネルギー)と心(ソフトウェア)に区分したならば、
「生きるとは、本来自由な魂が、制約の多い肉体をわざわざまとうこと」・・・と定義できますね。
だとしたら。身体感覚を魂が経験することこそが、生きている意味ってことになる。
結果、心が成長する。ソフトウェアが「よりうまくいく」ように改良される訳ですね(^^)。
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私は、感動という心理現象が「霊光」体験のミニチュア版ではないかという気がする。強く感動したときの感覚には、あの夜の体験に通じるところがあるように思うのだ。実際に感動的な情景をこの目で見て心を打たれた場合はもちろんのこと、文学作品でも、映画演劇でも、それらに接して感動したときには、内的な光が内から突き上げてくるような感じがある。そして、一瞬、その光の前で現実の世界は色あせてしまう。感動には、硬化した意識を押し流して、その内容を一新させるような力があるのだ。
身体感覚そのままに、ありのままの世界を観る・感じる・味わう。その価値。