生きることの意味「生きることがわたしたちからなにを期待しているか」

以前、連載されていたコラムで、不条理さの意味を説かれる言葉に感銘を受けた。
今回、ルワンダのツチ・フツ虐殺を小説にされている。
開始当初から、その内容の重さを予感して、どきどきしていた。
いよいよ佳境に突入。目が離せない・・・。

  • 夜と霧 新版

http://d.hatena.ne.jp/BigLove/20040306#p1
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/tg/detail/-/books/4622039702/reviews/ref=cm_rev_more_2/250-1186031-6549003
著者のユダヤ人心理学者 ビクトール・フランクルさんは、強制収容所のなかでこんな出会いをします。

生きる目的を見出せず、生きる内実を失い、生きていてもなにもならないと考え、自分が存在することの意味をなくすとともに、がんばり抜く意味も見失った人は痛ましいかぎりだった。そのような人びとはよりどころを一切失って、あっというまに崩れていった。あらゆる励ましを拒み、慰めを拒絶するとき、彼らが口にするのはきまってこんな言葉だ。『生きていることにもうなんにも期待がもてない』

そして、フランクルさんはこういう理解にたどり着きます。

生きることからなにを期待するかではなく、……生きることがわたしたちからなにを期待しているかが問題

この言葉、昨日の日記を書いてて、ようやく腑に落ちました。
生きること=life=生命・人生 に、私が、なにかを期待する のではなく、
生きること=life=生命・人生から、私が、期待されている。
この期待されている”なにか”・・・が人生の意味。


訳者の池田香代子さんは、稀代の名著・名訳の改訳を引き受けることに逡巡する。

けれどいまは、訳してよかった、と思っています。なぜなら、霜山版が依拠したのは初版(1947年館)ですが、このたび訳したのは、1977年の改訂版だからです。そこには、胸の奥底から震撼させられるような手直しがなされていました。その手直しから読みとれるのは、自著が政治プロパガンダに利用され、おびただしい血が流れていることに、フランクル氏が心を痛めていた、ということです。いままたパレスティナが悲惨な状況にあります。そんなとき、新たに『夜と霧』を世に送ることになったことを、厳粛な歴史の巡り合わせと受けとめています。

私は『夜と霧』を訳すかたわら、茨城県の牛久に通っていました。そこには、難民申請を認められず、強制送還を待つアフガンやクルドなどの方々を収容する施設があるからです。そして面会室で、「私はこの人生いらない」ということばをしばしば耳にしました。(中略)フランクル氏が『夜と霧』に記録したむごい状況は、ナチという、絶対悪とされている特殊な人間たちがひきおこした特異な事例ではありません。アウシュヴィッツと同じ状況が、国際難民条約を違反するかたちで、この現代日本社会にあるのです。

生きることが、池田香代子さんに、なにかを期待している。
池田香代子さんは、人生の意味と、明確に出会っている。
それは、池田香代子さんの意識が、人生に望んだことではなく・・・むしろ意識は改訳を、当初拒絶していた。でも、引き受けてしまった。そのことが、意味をもたらしている。