あなたが存在する・・・って、どういうことか
まだくっきりとは観得ていないことを、言語化してみます・・・。
使ってる言葉がまだ厳密ではないし、表現ももっと洗練出来るはず。
きっと本当は、すっごくシンプルに言い表せるんだと想うなぁ。
誤解が生まれても嘆くことはなく、どうしてそうなってしまったのか、そしてこれからどうその誤解を解くべきかに尽力すればいいのかな…と。
まさに、そうですね。そこに発見が必ずある。
経験上、気に入らない人・気に触る人って、実際にコミュニケーションをとってみると、必ず重要なメッセージをもたらしてくれます。世界の見え方が拡がり、価値体系が変わるような・・・。
ところが・・・気に入らないことがあると、いきなりコミュニケーションを絶ってしまう人がいます。
何が気に入らなかったのか、なんでいきなりこちらを避けるようになったのか、推測でしかわからない。相手の真意を確認し、こちらの思いを伝えるすべがない。
素敵な人だけに、友達で居たいだけに、本当に困る・・・。
- 感情に自分を支配される
「コミュニケーションをとると、不快感がこみあげてくる。だから、コミュニケーションを絶つ」・・・みたい。
かくして彼は、不快感の元を絶つチャンスを逸し続ける。
「気に入らない・気に触る」って、自分の内面の愛していない側面を投影しています。そことコミュニケーションをとると、今の自分の価値体系が変わってしまう。不快感を使えば、慣れた価値体系を変えなくて済む。
- 感情があなたですか?・・・違います。
- 知識があなたですか?・・・違います。
- 振る舞いがあなたですか?・・・違います。
感情も、知識も、振る舞いも、道具。あなたが使う、道具。
- 感覚があなたですか?
- 考えがあなたですか?
- 体があなたですか?
たぶん、感覚も考えも体も、道具。あなたが使う、道具。
感覚なんて変わる。考えなんて変わる。体を構成する物質なんて数ヶ月で入れ替わる。
今と違う感覚でも、違う考えでも、違う体でも、あなたはあなた。
- 記憶があなたですか?
記憶がなくなったら、あなた自身にはあなただってことがわからなくなるかも。
それでもなお、あなたはあなた・・・でしょうね。
- 表現があなたですか?
前途有望なモデルさんが急逝されたことを、今日、久しぶりに巡回したBBSで知りました。http://outliner.jp/emi/
僕にとっては、彼女はweb上の情報。そこに表現されている彼女は、彼女そのものではないけれど、彼女の一部ではある・・・でしょうね。彼女が死してなお。
- それらすべてのむこうに存在するもの。それがあなた
なのかな、たぶん。心理学者のアドラー http://d.hatena.ne.jp/BigLove/20040618#p5 は、そういうホリスティックな立場をとったみたいですね。
- 存在を愛し、そして考え方やふるまいは意見を交わす
- 受容・・・罪を憎んで人を憎まず
- 感情=私
- 知識=私
- 考え=私
- 振る舞い=私
- 受容・・・罪を憎んで人を憎まず
と思い込んでいるから、それらを否定されると私の存在が危うくなったような気がする。
いやいや、単に、
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- 私=自分の為したいこと
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と思い込んでいるから、その邪魔になりそうな現象を排除しようとするのかな。
何も為さなくても、そのむこうに確かに存在するもの。それが私。
私が確かに存在することを、明確に感じているときって、もろもろのことが、すべてボーナスとして感じられる。人の振る舞いのむこうに、そのひとそのものが存在することを感じられる。たとえ今、そのひとが愚かなふるまいをしていたとしても。
- 課題中心的
「自分は何を為したいのか」・・・課題をはっきり見据えれば、解決したも同然。
コミュニケーションをとってくれない彼に対して、当方が迷惑をこうむったこともある。「言ってへこましてやらなきゃ気がすまない」なんて気持ちも、正直ある。
一方で、彼とコミュニケーションをとることで、双方に発見があるはずという確信もある。
さて、どうするか。
こうしてお互い意見を言い合うことが出来る間柄というのも、素晴らしいものではないかと思います。そういう間柄は自分が作るきっかけ一つで実現するかもしれません。しないかもしれません。どちらに転ぶかわかりませんけど、自ら一歩踏み出してみるという選択は思いがけないものを自分に残してくれるような気がしています。たぶん、相手にも残してくれるのでしょう。
相手にも自由意志がある以上、自分の思い描いたとおりの結果にはならないかもしれない。
思い描いたとおりにはならない・・・ことの素晴らしさ。
もしも、思い描いたとおりにしかならない・・・ならば。つまんないだろうなぁ。
思いがけないことが起きるってことに、生きている意味があるのかもしれない。
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- ジャズミュージシャンの喧嘩
外山喜雄さんが著書「ニューオリンズ行進曲」で、さる黒人ミュージシャン同士が、喧嘩したっきり数十年も口をきかない・・・なんて話を紹介されてます。その気性の激しさ・頑固さも、愛すべき価値なんでしょうね。彼らはきっと、いい音出すだろうなぁ・・・。
- 再び 課題中心的(真の課題は自分にある)
- 彼がへこむ・・・保証はない。へこむかへこまないかは、彼の自由選択。
- 彼に発見がある・・・保証はない。発見するかしないかは、彼の自由選択。
そして・・・私の望みは、本当にそこにあるのか?
どんな望みもすべて、最終的には、私自身が何かを体験し・何かを発見することにつながっている。
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- 彼をへこませたいのは、たとえば「私はOKだ」と思いたいから。
- 彼に発見させたいのは、たとえば彼のことを心配するエネルギーロスを、解消したいから。
ならば、単純に「私はOKだ」と思えばいい。心配するのをやめればいい。
私自身が何を体験し、何を発見するかは、すべて私の自由意志で決められる。
アドラーのことば http://d.hatena.ne.jp/BigLove/20040618#p5
人は自分が与えた意味づけを通してのみ現実を体験する
- 自己愛を追求すると、博愛になる
私自身がどんな体験をし、何を発見したいか・・・を突き詰めると、創造すること自体が楽しいんだというところに行き着く。より大きな価値・より深い価値の創造へ。
そして、無償の愛になっちゃう。