欲せざること と されたくないこと は違う気がする
Twitter眺めててひらめいたことを、Blogの記事にしてみるテスト。
果たして、うまくいくかどうか・・・
一昨日、帰宅したとき、ふと目に留まったのが、このつぶやき。
これがね、私の場合それでも上手くいかないんだなあ…。RT @daichittaX: 間違わない可能性が高いのは「されたくないことはしない」だな。 RT @fumiou 「人にしてもらいたいことを人にしてあげる」ってただのエゴだよ。だって人によって好みが違うやんか\(-o-)/
うんうん、そうそう。そうなんだよなぁ・・・。
僕にとっては、全然されたくないことじゃない・・・むしろ大いにしてほしいことが、
ひとによっては、されたくないことだったりする。ときには、トラウマを刺激されたり、恐怖感を呼び起こされたり。
ただのエゴだよ
ってのも、そのとおりだよなぁ。
で、元つぶやきをたどるうち、
自分は後者ですかね。嫌なことの方が共通する所が多いのが人間かな?と。RT @bn2islander: @YujiKiyota @fumiou 「汝の欲するものを与えよ」というのがキリストで、「己の欲せざる所は人に施すことなかれ」と言った孔子。この二つの対比はよく言及されてますね
これ読んで、はっとひらめいた。
@rero70 @daichittaX @fumiou 「己の欲せざることをひとに施すべからず」と、「されたくないことはしない」とは、かなり違うんじゃないかなぁ・・・と私は想ってます。
孔子の言葉、引用し間違えてますね>俺(^^;
それはさておき、
欲せざる所 と されたくないこと
欲するもの と してもらいたいこと
って、思い浮かぶものが、かなり違う。
ここにポイントが、あるんじゃなかろうか・・・とひらめいた。
少なくとも僕の場合、
されたくない、してもらいたい・・・というと、具体的な行動が思い浮かんじゃう。ろくに口もきいてくれないとか、にこやかに笑いかけられるとか、真摯にアドバイスしてくれるとか、頭を撫でてもらうとか(^^)
欲するもの、欲せざる所・・・というと、平和・財産・権力・侮蔑・愛・平等・差別 なんて言葉が浮かんでくる。
敬意を欲するなら、敬意を与える。
権力を欲するなら、権力を与える。
侮蔑を欲せざるなら、侮蔑を施さない。
笑いを欲するなら、笑いを与える。
・・・ならば、具体的になにをしたら笑いを与えられるか。自分のして欲しいようにしただけじゃ上手く行くとは限らないよね。相手のツボを刺激しないと。
僕は、こころのなかの動きを、あれこれ観察し、探求し、語り合うのが好きだ。・・・これは、する・しない、のレベル。
・・・それは、なにを欲し・欲さないからだろう・と掘り下げてみる。
探求を欲するなら、探求を与える。
自由を欲するなら、自由を与える。
抑圧を欲せざるなら、抑圧を施さない。
・・・このレベルに意図を置いて、瞬間瞬間、行動を選択すれば、欲しい物を手にしたり、または、すでに持っていることに気づいたり、または、実は欲してなかったことに気づいたり、するんじゃないかな。経験上。
それでもなお、エゴだとは想うんです。
ただ、もしかしたら、
エゴから発して、それがより大きなものにつながっていくプロセスにはなるかも。
視野が狭いと、結局うまく行かないから、
広く、深く、なっていかざるを得ない。
全然大人にならない私ですが、
こういうことを瞬時にひらめけるようになった・ってことは、
少しは広く、深く、なってるのかもしれませんね。うしし。
なお、孔子やキリストが、どういうつもりでおっしゃったのか、僕は知りません。
さらっとぐぐってみた限りでは、どちらの言葉も”してほしい・してほしくない”のレベルで説かれてることが多いみたい。
キリストのことばは、英語でも”do”で記述されてることが多いようで、もともとヘブライ語でなんとおっしゃったのかは、未だ見つけていません。
ただ、僕には自分のこころや経験と照らし合わせてみて、こんなふうにみえてる・ということでございます。それは事実。