色つきの悪夢 〜カラーでよみがえる第二次世界大戦〜

夕食中、BGMのようにつけていたTVから。
背にして食べつつ、ナレーションのトーンから”ディスカバリーチャンネルかなぁ”と想っていた。


あれ?ドイツや日本の記録映像も、カラーだ。米軍撮影以外に、第二次大戦のカラー記録フィルムって、あったっけか?!?
黒白の幕がはられたスタジオに切り替わって、日本の団塊Jr世代の役者さんたちが、静かに率直に、感想を語り合ってる。
NHKの番組だったんだ!

第二次世界大戦を記録した膨大な白黒映像を、最新のデジタル技術を駆使して、カラー化

明治時代の彩色絵葉書や、数ヶ月前観た第一次大戦前後のカラーフィルムと似た、淡い色彩。
ちょっぴり絵画のような。それでも白黒よりもぐっと、なまのその時を想像させる。


戦争を直接体験したかたがたは、そろそろ亡くなりつつある。
指揮した世代は、もうほとんど居られない。
一兵卒として戦われた方々も、ぐっと減ってしまわれた。
私の親のように、子供として体験したひとたちが、もはや70代。


フィルムでの視聴体験は、実体験に遠く及ばない。
それでもなお、だからこそ、少しでも、いまと地続きの体験として、体感してもらう工夫って、とても大切だと想う。

今回の映像で、私が一番印象が強かったのは、亡くなった方々のからだでした。


このような死体を放映するについては、
亡くなった人の尊厳を守る意味でも、いろいろな配慮事項があります。


それでもなお、放映に意義があると私は想います。
亡くなった方々は、その存在すべてを通して、
”こんなふうに、ひとの尊厳がおろそかにされるようなことが起きてはいけない”
と、私たちに伝えてくれていると想うんです。


母曰く

戦争中、幼いながらに”自分の命がいつ終わるかわからない”という感覚は、いつも強くあった。
戦争というのは、人間をみな、将棋盤に押し込め、駒として扱うようなものだと想う。
そういうこと自体を、してはいけない。


戦後、団塊の世代と、その親たちは、私が・私が・・・と我を張りがちだった。
それも、
ひとを道具として扱うという意味では、おなじ。

自己決定権を、とことん奪われた反動として、
我を張り合う世代も、必然だったのかもしれない。
冷戦も、企業戦士も、環境破壊も。


ひとがひとの尊厳を奪いあう、愚かしさと恐ろしさ。
20世紀は、それをとことん学び・体験した時代だったと言えるのだろう。


21世紀は。


”まわりへの やさしさを みがくしくみ”
”たしかな しなものを つくるしくみ”
・・・先日の事業所緑地開放にあたり”幼稚園児にもわかるような展示資料を”と頭をひねった際、
ISO14001とHACCPを言い表すことばとして、はじめに浮かんできたのがこれ。
没にしました。
二つのしくみを言い表すことば、というよりもむしろ、
これからのしくみは、こんなことが大切になるってことを、言い表しているような気もします。


人間や地球が、しくみの道具になるのではなく、
人間や地球を、輝かせる道具として、しくみがある。
21世紀からは、はっきりとそうなっていくのではないでしょうか。