龍馬伝

後半をBSで。
VTR録画しておいたものを、ハーバード最終回のあとに、通して。


絶望の中にいながら、ひとに希望を与える龍馬。
甘え上手でもあり、可愛らしくもあり、思いやりが深く、愛嬌があって、悩みが顔に出てしまう。
・・・うーん、こういう男なら、男にも女にも、もてるよなぁ。


音楽も、空気感も、脚本も、構図も、カット割りやテンポも、演技の熱と抑制も、実に見事。
五感でなにかが伝わってくる。


明治100年といっていたのが、ついこの間のような気がするのに・・・といっても小学生時代かぁ。
もはや、150年がすぐそこ。
龍馬から今までの時代の、1/3を僕は生きたことになるのか・・・。
小学生の頃、明治維新なんて、想像もできないほど遠い昔の出来事だった。
いま、さらに遠くに遠ざかったはずなのに、かえって、実感を持って”あぁ、ほんのこのくらい前なんだ”とわかってしまう。
歳をとるって、それだけで、ありがたいことでもあるなぁ。馬齢を重ねていてさえも(^^;

情熱大陸 デザイナー

自然の息吹やきらめきを感じられるひとだから、ああいう人工物で、ああいうきらめきを表現できるんだろうなぁ。美しい。

ハーバード白熱教室 最終回

VTRに録画したものを、みる。

放送内容のメモ

カントの主意主義的考え方には、魅力がある。
しかし、ほんとに意思のみで、正義を決めるべきだろうか。
普遍性と友情。
モンテスキュー「完全に有徳な人は、身近な友人に対するのと同じように、遠くの見知らぬ人の危機に駆けつけるだろう。・・・完全に有徳な人に、友人は居ないだろう(^^)」
全人類よりも、友人を優先するのは、自然だろう。そもそも私たちは、具体的な物事をベースに、概念を磨いていく。


正義と善とを結びつける2つの考え方

  1. 相対主義:正義を、特定の文化の共通認識として考える・・・慣習に左右されるので不十分。先週末の南部の白人の例
  2. 相対主義:正義を、道徳と目的に内在する善に依って考える・・・ひとによって異なる。善についての合意は存在しない。論じる方法はあるのか?

正義を議論する上で、善や意図・目的を論ずることは避けられない・・・とサンデル教授は主張する。


同性結婚の事例を取り上げながら、論じていく。
同性婚反対の学生が、まず持論を語る。

  • 結婚の目的・テロスは生殖。それを賞賛し名誉を与えることが、結婚制度の目的。禁止する必要は無いが、後押しする必要も無いだろう
    • 反論1:不妊症の夫婦は?
    • 反論2:マスターベーションは許されるのなら、なぜ生殖目的でないセックスは許されない?
      • 行為としては許されても、自分自身との結婚を社会が許す必要が無いのと同じでは?・・・道徳の問題と、社会が推奨・承認することとの違い。
    • カトリックの信者は結婚の目的をそう捕らえても、ほかの信仰では違うだろう。教会が結婚を承認することを、国が強制することはできないけれど、シビルユニオンとしては認められるべきでは(結婚のテロスは、国が決めるべきではない。宗教的コミュニティが決めるべき)なにが善であるかを決めるべきではないのでは。多元的社会に住んでいるのだから、権利の枠組みのみを定めるべき。
    • 国は、いかなる結婚も認めるべきではないのでは。
      • いや、アリストテレスが言うように、国の役割は、なにが善なのかを集合的に探求する助けになるために、あるのでは・・・妊娠中絶について、自分の立場を決めること無く、社会的合意に達することはできるだろうか・・・できないと想う・・・では、なぜ同性結婚に賛成?・私自身が、宗教心から探求し、道徳的に賛成すべきだという結論に達したから。
      • 自分の道徳的意見と、法としてどうあるべきかは、切り離して考えられると想う。私は、道徳的には中絶にも同性婚にも反対だが、法的には認められるべきだと想う。禁止することでさまざまな害が生じるし、認めても自分には害が及ばない。


法律で認める=道徳的承認?
法律で認める=害が無い?


マサチューセッツ州の、同性婚に関する判決。
リベラルな立場(同意・選択・自律・中立)では、捕らえきれない。
民事婚には、個人的な約束という意味に加えて、社会的賞賛の意味合いもある。
で、生殖が結婚の目的ではない、として、同性婚を認めた。


良き生・道徳性。道理にかなった考え方が、多元的に存在する。
正義についても、おんなじではないか?
だから、ひとつの原理に定めてしまうべきではない。
意見の相違を議論しあいながら、見解を磨いていくことになるのではないか。
反照的均衡。
この講義そのもののように、具体例と、原理とを、行き来しながら。


どうしたら、意見の合わない同胞市民を尊重する社会になれるだろうか。
方法の一つは、宗教的・道徳的観念を脇において、政治的議論をすること。しかしそれは、唯一の方法でもなければ、最善でもないだろう。
もうひとつは、互いの違いに関心を持ち、論じ合い、挑み合い、補強し合いすること。
道徳的に関与することでこそ、社会の様々な善を理解することができる。


なぜ、答えのない問いを、問い続けるのか。
なぜなら、私たちは、その答えを生きているから。
なにが善か。なにが正義か。
ひとつの答えに定めるのではなく、
懐疑主義に安住するのでもなく、
多元的に探求し、実践し、また探求しながら。


我々がこの先何年も、理性の不安に悩まされ続けるとしたら、
それは、この講義で我々が、大きなことを成し遂げたということだ。


教授の熱い語り口。
学生たちの真摯な表情。スタンディングオベーション
学生たちの議論の中身は、回を追って、どんどん深まっていった。サンデル教授は、実にリードが巧み。
サンデル教授が、この講義で学生に伝授した一番のものは、実は、具体例をベースに、問い・考え・語り合い、原理を見出し、また問い直す、この姿勢だったんだなぁ。

感想

ソクラテスに戻れ・と、僕はとらえた。
街に出ては、道行く人を捕まえて議論を交わし、考えを深めていったというソクラテスに。
以前も書いたけれど、10年ほど前、ふと、こんなことを想った。

私たちが、わざわざ別々の存在として生きていることに意味があるとしたら。
瞬時に理解しあえない存在として生きていることに意味があるとしたら。


それは、それぞれユニークな体験をし、それぞれにユニークな視点をはぐくみ、それぞれにユニークな見識をもつことにあるのではないか。
ひととひとが交流し、ユニークな見識どうしが触れ合うことで、また新しい視点や見識を育てることができる。

”ひとつの善”が、自由を奪うように、
”ひとつの正義”も、多様な視点をつぶしてしまう。
正義をひとつにしたいがために、善と切り離して考える・というのは、”安全欲求”が満たされていない時代の、かりそめの安心を得たいが故の過ちなのかもしれない。
多様でこそ生命。
あのひとと僕と、それぞれに見えている正義を理解しあい、磨きあうことにこそ、生きている意味があるのかもしれない。


サンデル教授が来日し、特別講義をされるという。
7月中旬、募集予定。応募せねば!
うーん、自分の地頭が、この講義にふさわしい力があるかどうか・・・。
ただ、日本的な価値観と、サンデル教授との出会いは、なにか興味深い・もしかしたら画期的な展開を産むような気がします。




番組、日本語訳はすっごく大変だったのではないだろうか。
と・いうのも・・・


カントの回の時、用語をきちんと理解したくて、あれこれググって観た。すると・・・日本語訳が数種みつかるのだけれど、互いに違う意味にとらえられたりして。
いずれの訳も、たぶん厳密性を確保するため、逐語訳に近いのだろう。カントが使う、このドイツ語単語を、学術用語として日本語で定義しなおし、それを並べていく・・・みたいな感じ。
で、どのドイツ語に、どの日本語を当て、どんな意味を定義するかが、訳者により、微妙に違ってる。


すると。
カントを日本語で勉強するためには、まず、カント用学術用語を勉強し、それから、文章を読む。
この作業を、複数の訳者について繰り返しながら、徐々にカントそのものの言ったことを類推していくことになる。
なんだか言葉のゲームみたいで、実感を伴って腑に落ちて理解する・というレベルに、なかなかたどりつけない。
・・・おそらくは、日本における西洋哲学の勉強は、いや、経典や老子孔子の教えについても、こういうスタイルでやってきたんだろうなぁ。


カントの思想は難しい・・・という評判を聞く。
カントの思想が難しいんじゃなくて、この勉強スタイルが、難しいんじゃなかろうか。


サンデル教授の語り口は、じつに平易だった。カントの思想に関しても。
自分自身の実感とむすびつけて、腑に落ちて理解しやすい。
これは、英語とドイツ語の構造が似ているから・なのかもしれない。
それとも、学習のスタイルが、まったく違うからなのかもしれない。


してみると、
今回のこの講義の日本語訳は、
従前の哲学用語と整合性を取りつつ、平易で腑に落ちやすい表現をなしていくという、
ものすごく大変で、かつ、力量が必要な作業だったろうと想う。
訳者の方々に、深く深く感謝します。