アバターとカツマーとカヤマー そして、カールじいさん

昨日の記事・アバター鬱?!?と、日本の役割の続き。


このところ、勝間和代さんと香山リカさんのことが、なぜかそこはかとなく、気になってました。
お手洗いに入ってて、ちょっと腑に落ちた感じが。


アバター”の主人公って、目標追求・達成型の生き方。努力を重ね、そして正解にたどりつく。・・・勝間さんっぽい。
その街のこども”の主人公二人は、なりゆきのまま、出すべき答えもわからないまま、努力のしようもないまま、迷いながらさまよい歩く。ただ、伴にいながら。・・・香山さんっぽい。


話は飛んで・・・ISOマネジメントシステムはどれも、目標達成型のしくみと、維持運営型のしくみとを併せ持つそうな。
そして、両方ないとうまくいかない・んだそうです。


目標達成型だけでは、幸せになれない。努力したら正解がつかめないことがらもある。努力し続けることで起きる行き詰まりもある。それどころか、過剰な努力は諸悪の根源かもしれない。
時の流れに身を任せ、ただ伴に居て、瞬間瞬間をありのまま感じることと、両方そろってこそ、
仕合わせる幸せ”が続くんじゃなかろうか。

河合隼雄 著 「日本人という病」から

 何でも目標を設定して、
 それに向かって進んでいかなくては
 ならないという考え方をするのではなく、
 そういう考え方もあるし、
 こういう考え方もある。

 だから、カツマー(勝間)だけでは行き詰る訳です。

僕が”アバター”よりもずっとはるかに、”カールじいさんの空飛ぶ家”に惹かれるのは、”目的達成至高主義”のその先を描いているからかもしれない。伴に居る幸せ。仕合せる幸せ。
ハンターという生き方はしょせん、目標達成的なのかもしれない。


妻は、カールじいさんで唯一、気に入らなかったシーンがあるという。
おばあさんを驚かせようと、丘の上にぐいぐい先走って登ってしまう、あの場面。
そういわれて判った。あれこそがじいさんが、”目標達成至高主義”の過ちに、出会ってしまったシーンだったんだ・と。





これまで僕は、
言葉で表せる範囲と、
言語で表しきれない本質と、
・・・という切り分けで、正解のある・なし、ターゲットのある・なしを捉えていたように思います。


でもどうやらそうじゃない。
言語で表せる・表せない、どちらの領域にも、
正解のある・なし があるみたい。


アバターで描いてる答えは、言語外の領域も含めた”正解”。どうやら、そうみたいです。
では、しがみつかない生き方、正解を求めない生き方とは・・・
今日の新聞に、その実例が紹介されてました。

実は2週間ほど前に訪ねた九州で本当に幸せだった人を見つけたんです。83歳まで山で木びきをしていた東勝吉さんという人。(中略)このおじいさんに絵の具を渡すと驚くべき絵を描きはじめた。「私も今から自分の絵をやめて乗り換えたい」と思うぐらい。99歳まで生きて百数十枚描いた。
地元の若者が記録した東さんの映像も見た。誕生ケーキにたてた99本のロウソクをやっと吹き消して「はーっ」とため息。なにせ99歳だからね。「何か歌って」とせがまれ、調子っぱずれの歌を歌う。歌い終わると「あー、くたびれた」と、車椅子で部屋に戻ってベッドにばたっと倒れる。みんなが「東さん、東さん」と呼ぶの。それでおしまい。彼は帰ってこないわけ。
・・・亡くなった?
そう。彼は本当に幸せだったと思う。我々のいう「絵」は売らないと困るし、いいの悪いのと評論される。彼は純粋無垢。展覧会に出して賞をとることも考えず、誰も相手にしなくても誇りを失わない生き方。なれるものならこちらのほうがいい。
(中略)
若いころ「誇りを持て」と言われ、どうしたらいいのかわからなかった。どこにあるのか、あるなら持ってみたい、と思った。売っているわけでもないし。それで一生懸命考えた。
私の結論は、子供のときの劣等感をはぎ落して素直な人間になることができたらこれにまさる幸福はない。自分の劣等感を少しずつひきはがしていくと、最後に誇りが残る。
(中略)
基準を作らなければ失敗もない。道はどこそこに行こうと思うから、迷う。でたらめに行けば、着いたところが目的地なのだ。
毎日新聞夕刊 新幸福論 画家 安野光雅さん