マイケル・ジャクソン追悼式

生中継は観ることが出来ず。
夕方のニュースで、ちらりと観たあと、
NHK BS2での特集で、かなりしっかりと。湯川れい子さんの言葉に、深くうなずく。
超一流のコミュニケーターたちが、全身全霊で表現する、マイケルへの想い。ごくさわりしか観ていないのに、深く伝わってくる。
マライヤ・キャリーは、こみ上げる思いに、歌うのがやっとだった。
スティービー・ワンダーさえも声がかすれた瞬間があった。
お兄さんが歌う”スマイル”。
ブルック・シールズが「奇妙なカップルだと言われたけれど」と語った、無邪気さを取り戻しあった思い出。
可愛らしく美しく育った娘さんの涙のスピーチ「私が生まれてからずっと、人々が思い描きうる最高の父親だった」。


多くの新聞で、「晩年は奇行が話題に」といった書かれ方をした。
それは違うだろう。
マイケルが奇行なのではなく、それを奇行と見てしまう僕たちの社会こそが、奇形なのだ・・・と、僕は感じてた。
追悼式で、ジャクソン師が同様の発言をし、満場の拍手を得たところをみると、わかるひとはみな、わかっていたんだな。


果たして、マイケルは、なにかを失ったのだろうか。
”得れば失うはずだ”という固定観念を、我々人類が強固に持っているからこそ、僕たちは彼から、なにかを失わせたくてたまらなかったのではないか。
そして、彼はなにかを失ったのだろうか。
真実の理解者を得た。友人、家族、ファン。
でも、失ったものはなにもなかったのではないか?
偽りの評判にごまかされ、中傷するような人たちは、風向きが変われば、見方を変える。


ティーブ・ジョブズは言う。

死を前にすると、失うものなど何も無いことに気づく
ハングリーであれ、おろかであれ

これって、一見

我れ唯だ足るを知る

と真反対のように見えて、極めるとおんなじなんじゃなかろうか。


すべては僕たちのもの。そして、なにひとつ自分専用のものはない。
失うものはなにも無い。体験と経験と、選択の機会を得るだけ。


マイケルも、あなたも、僕も、ビッグバンの瞬間まではひとつだった。
ビッグバンが無ければ、苦悩も分離も対立も無かった。でも、ムーンウォークも、生まれなかった。
世界って、得るためにあるんだと思う。失われるものは、なにもない。


7/11追記
マイケルと親しかったダイアナ・ロスさんら、追悼式を欠席
悲しみが、あまりにも深いんだろうなぁ・・・どんなに強い絆で結ばれていたことか。