ミッキーは、老子の化身(^^)

Re: みゅさん BigLove - 2009/03/30(Mon) 23:49 No.13911
僕が感じたものが、なんだかわかったよ。
言葉で表しきれない、根源的ななにか。仮に名前をつければ・・・


道。



ミッキーもミニーも、老子の化身だったんだね。
米奇老鼠って書くもんなぁ

老子の教えの、いっちばん難しくてわかりにくいところって、
説けないもの、言い表せないもの、名づけられないものを、説いてるところ。
仮に”道”と呼んでるけれど、呼んでしまうと、もはやそれそのものではない・・・と言う。
説いているけれど、説いてしまうと、それそのものではない・・・と言う。


この、とっても理解しづらいことがらを、
今回のキャッスルショー、”ドリームス・ウイズイン”は、幼稚園児にもわかるように、見事に描いてる。

Re: みゅさん BigLove - 2009/04/13(Mon) 02:45 No.13927
いよいよ、あと2日。



ミッキーも、ミニーも、魔法の鍵ってなんなのか、語りません。


”そんなもの実在しない”と思えば、実在しない。
「これだよ」ってシンボル化すると、ほんものとは違ってしまう。
サンタや、ミッキーや、神様や、道とおんなじ。



ほんとうに大切なものは、目に見えないし、説明も出来ない。
ファンタジーは、仮の姿を与えることで、ほんものをつかみやすくしてくれる。
やがてある日、気づくんです。ファンタジー無しでも、やっていけることに。ほんものは自分のこころの中に、はじめからあるってことに。



「ずうっと友達だよ」
もしかしたら今回、永年活躍されてきて、引退される方も、いらっしゃるのかもしれませんね。

古今東西、ひとびとは、老子が仮に”道”と呼んだものに、いろんな名をつけてきた。いろんな描き方をしてきた。説いたり、絵に描いたり、彫像にしたり、数式モデルにしたり。
神、法、阿弥陀如来、フォース、地動説、相対性理論、魔法の鍵(^^)、ミッキー、などなどなど・・・・・
この世界にあるもの・概念・うごき、すべて、”道”のあらわれ。そしてどれも、道のある側面を示しているが、そのものではない。
そして、そのものではない”仮の姿”だとわきまえていれば、ほんものを会得する上で、とっても役に立つ。


旧約聖書の中では確か、神の名は呼んではいけないことになっていた。
ユダヤ教も、初期キリスト教も、イスラム教も、偶像崇拝を禁じている。
それはたぶん、”仮の姿”を、ほんものと混同してしまうことを恐れたがゆえではないだろうか。


仏教では、仏・法・僧の三宝に”帰依”せよと説くらしい。

帰依(きえ、Skt:zaraNa、pl:SaraNa)とは、仏教用語で、拠り所にするという意味。
(中略)
盲信との区別が特に強調される。

いま、原文が見当たらないのだけれど・・・この、仏法僧を、こんなふうに解釈した記事を読んだ。

  • 法・・・大自然の法則・・・”りんごが木から落ちる”
  • 仏・・・法を、わかりやすくモデル化したもの・・・万有引力の法則
  • 僧・・・モデルを考案するひと・・・ニュートン

これを、かつての天動説のように妄信するのではなく、よりどころとして、ありのままの大自然を理解する。それなら、なるほど腑に落ちる。


天動説が間違っていて、地動説が正しいのではない。ニュートン力学は間違っていて、相対性理論が正しいのではない。
どちらも、ほんものの天体運行とは、ほんものの物理現象とは、違いがある。近似モデルに過ぎない。
じゃぁ、役に立たないのか?そんなことはない。大いに役立っている。
古いモデルは用無しなのか?そんなことはない。たとえば日常生活の範囲では、天動説やニュートン力学のほうが、ずっと使いやすい。


コペルニクスは弾圧されたけれど、ニュートンの名誉が奪われるようなことは無かった。
時代は少しづつ進んでいる。


ミッキーも、”良心のモデル”という意味では、”神様””仏様”同様。
ミッキーと仲間たちは、現代版の”古代神話の神々”とも言えるだろう。レジェンド・オブ・ミシカで描かれてるとおり。
それは、かつての天動説のような、神聖不可侵なものではなく、よりどころ。友達。


彼らを見て、笑顔になるのなら。励まされるのなら。
そのエネルギーの源は、実は自分自身のこころにある。
それを自覚し、自在に使ったなら、それだけで。
なるほど夢は、どんどん開くはず。