飽きるもの、慣れるもの、いつも新鮮なもの。

以来、いったい何回、このショーを観たんだろう。次になにがどうなるなんて、全部わかっているのに、それでもこころを揺さぶられてしまう。

何度もショーを観ることで、揺さぶられなくなってしまったものも、ある。
アンダー・ザ・シーでいえば、冒頭、すぅっとライトがまんなかに集まる演出。ぞくぞくっと震えが走り、肌があわだつほど感動したが、いつのころからか・・・
似ているのが、ドリームライツの冒頭ファンファーレ。スニーク初日に出くわしたとき、第1音を聞いただけで、そくそくっと電流が走った。その感じは、観るたび繰り返されてたけれど、どうだろう、1年経った頃だろうか、感じなくなってしまった。
ワンマンズ・ドリームの飛翔シーンも、そう。どうなるか判っていても、ぐっと来て、さぁっと涙がおちていたのに、IIになって、どうだろう5回ほど観たあとだろうか、その感覚はなくなった。


一方で。
こころ揺さぶられ続けるものがある。
ひとつは、ひとのこころ。同じ役柄、同じ踊りでも、そこにそのひとそのものが、殻をぶち破って現れているとき、こちらのこころが揺さぶられる。
もうひとつは、たとえばブラヴィッシーモ!の、水煙の舞う姿。お客さんのどよめき。炎の揺らめき。
どちらも、日々違う。僕の心も日々違うから、なにか共鳴して、毎度違うものが見えてくる。


ミッキーは、ミッキーでなければならない。
ただ、通り一遍のミッキーでは、感銘は起きないだろう。
たとえばアブ・アイワークスが描くミッキーと、ほかのアニメーターが描くミッキーと、そこにはたぶん、描き手の本質的な個性が乗ってくる。その領域まで気持ちを乗せて、はじめて面白い作品になるのではないだろうか。


楽譜だって、群舞だって、アトラクションの運転やゲスト誘導だって、カクテルだって、そう。
なにかしら、その人そのものが現れているから、感銘を受ける。



そして、それ以上に重要なのは。
僕のほうのこころが、鈍くなってしまえば、感銘は受けなくなる。
日常に対して、新鮮な感性を保てているだろうか。
友情や、家族や、同僚のありがたみに対しては、どうだろうか。
ライブショーに対してさえ、”初見さんの感性”を保ち続けることは、出来ていない。演出家って、その目をもつわけだから、凄いよなぁ・・・。
ピーターパンの飛翔に、ぞくぞくっと来る感覚が戻ったことがあった。HKDRに行ったあとだったか・・・。あれは、感性の新鮮さを回復したのか、それともなにか、違うテーマを持ったからだったのか。