親友からのTEL。


シャーリー・テンプルさんと、ジュディ・ガーランドさんの違い。
周囲の配慮の質も違う。期待も違う。当人のあり方も違う。
その違いの本質は、「ありのまま無邪気」であることを良しとしたか、「ありのままではなく無邪気さを演じる」ことを求められたか、に尽きるのかもしれない。


シャーリー・テンプルさんは、素のままの姿やふるまいを愛された。アカデミー特別賞受賞時の、”ママ、これで帰っていいの?”とか。
まっすぐに育つよう、周囲は配慮し、環境を整えた。
保護された環境から、いざ大人として自分の足で踏み出す第一歩、選球眼が育っていなくって、いきなり結婚し、失敗するわけだけれど。
その失敗をも、暖かく見守られたし、自分でもOKを出せていたんではなかろうか。
こうもいえるかも・・・無邪気でありながら、自立した人間だった。生まれたときから、そのように育てられ、だから爆発的に愛された。そして、その資質を着実に人生を通じて育て続けた。


一方、ジュディ・ガーランドさんは、”太らないこと”を契約条件に入れられ、清楚なイメージを期待され。一方で欲望の対象ともなり。
”ありのままの私ではいけない”という風に、自分も想ってしまっていたろうし、周囲もそう期待したと言えるだろう。
そんな彼女が演じるドロシーだからこそ、胸を打つのかも。
ドロシーは"オズの魔法使い”という物語を通じて、”虹の向こうのどこか”に夢の国があると信じ、冒険し、結果、”自分に欠けているものは何も無い、今居るこの場所、この自分こそが素晴らしい”と気づく。
ジュディはついに、”虹の向こう”を求め続けたまま、人生を終わってしまったのだろうか。
それとも冒険の果て、”今この瞬間こそが素晴らしい”と気づいて、この世を去ったのだろうか。


ひとつだけはっきりいえることは、
ジュディ・ガーランドが歌う姿は、僕にとって、なんの前提条件も無く素晴らしい。輝いてる。
たとえ彼女自身が否定したとしても。


昨年、義母の生命が危うくなったとき。
世の中には、ほんっとうに大切なことと、どうでもいいこととが、はっきりあるなぁってわかった。
日ごろ大切だと想ってる、こころわずらわすほとんどのことは、実はどうでもいいこと。
ジュディが太ってようが・やせてようが、清楚だろうが・淫乱だろうが、同性愛者だろうが・両刀使いだろうが、大スターだろうが・人気が無くなろうが、実はそれらって、どうでもいいこと。
ジュディがたとえ何もせずただ立っているだけの時も、彼女にしか表現できないほんっとうに大切なものが、厳然と在るのだろう。そして、僕にも、あなたにも、すべての人に。