硫黄島からの手紙

観ていてとてもリアリティーがあり・・・
本当にこのような戦闘が行われていたんじゃないかと・・・
ハッキリ言って 怖かったです。

残酷な描写も多く、人の命という物を考えさせられます。

今回クリント・イーストウッドさんは、意を尽くして描いたんだなぁ。
そして、実際の硫黄島の戦闘は、更にずっとずっと凄惨なものだったんだそうです・・・。

なるほど、怖かった。クリント・イーストウッド監督は、戦争の怖さを、とことん意を尽くして描いていた。


そして、戦闘シーンが怖いのではなかった。
むしろ、あえて抑えた描き方をしたであろうことが、せりふなどから読み取れた。実際の硫黄島の戦闘が、更にずっとずっと陰惨だったことは熟知した上で。幅広い層にこの映画のメッセージを伝えるために。そして、今を生きる我々の現実に引き付けて、テーマを体感してもらうために。


では、なにが怖いのか。
「不毛で無益な選択肢しかない」状況に押し込まれることの怖さ。それが如実に描かれていた。


今、僕たちが、こんな不毛な状況に居ないで済んでいるのは。
沢山の人々が、「2度とこんな不幸な世の中にしてはいけない」と深く決意して、今の社会を築き上げてきたからだ。
でもね・・・こんな不毛な状況を招きかねない種は、僕たち自身の中に、今もある。

  • 「めんどくさい」「どうせばれないから」と捕虜を射殺する。
  • 実際の相手と直接触れたこともないのに、教えられたまま「鬼畜米英は腰抜け」と決め付ける。
  • 使命よりも「勇壮」であること・自己イメージを守ることを優先する。
  • 保身のために、不誠実なコミュニケーションをとる。
  • 不適切な目的をセットする。

などなどなど・・・


そんな愚かなあり方は、過去の遺物ではない。みな、僕の中にある。僕の周りでもよく見かける。


生命の大切さ、生活の愛しさを知っている、心優しいもの同士が、全力を尽くして殺し合う。
そんな恐ろしいことを、起こしてはいかん。


前記事で引用した毎日新聞の記事は、読売新聞の記事を受けて書かれたものだった。

 「手紙」のほうを見た。たしかに栗林忠道司令官役の渡辺謙は好演している。だが、ものたりない。親米派の栗林中将、西竹一中佐のヒューマニズムと、ファナチックな軍国主義者の対立というのは米国映画だからいいとしても、戦闘場面があっさりしている。

 映画を見た元生存兵は途中で席を立った。「実際はあんなもんじゃないよ」「悲惨でむごいものだった」と語っている。(読売新聞12月9日夕刊)

 以前、硫黄島の壕(ごう)に入ったことがある。赤土の地肌から硫黄のガスを含んだ蒸気がもやもやと立ち上っていた。むっとする熱と湿気と硫黄のガスで5分と我慢できなかった。ここで、水も食糧も断たれ1カ月余り耐えた。映画では表現できないかもしれない。
(中略)
 ……「おーい、海軍さん、まわりの死体をかき集めて、そのなかにかくれな」と言われた。兵士は、近くの戦死者の腹を裂き内臓を取り出すと、自分の上着のボタンを外して押し込み、死んだふりをして敵を待つ。

僕自身でこの映画を観てみて、元生存兵さんが”途中で席を立った”のが、どの時点でだったのかが、とても気になった。
ほぼラスト近くまで観ない限り、この映画の主題は、この映画が描く「戦争の怖さ」は、伝わらない。僕はそう感じた。


そして、毎日新聞の記事は、「この映画、お勧めしない」という読売新聞の記事をより具体的に補足することで、正反対のメッセージ「この映画、お勧め」を伝えることに、見事に成功しているんだな(^^)
映画の中で栗林中将がしばしば使う、”現実を提示することで、合理的な対応を選択させる”というコミュニケーション方法そのままに。

親米派の栗林中将、西竹一中佐のヒューマニズムと、ファナチックな軍国主義者の対立というのは米国映画だからいいとしても

読売新聞記者の、この読み込みはあまりにも浅い。
栗林中将、西竹一中佐と、意見を異にした将校たちとの違いは何か。
それは「どこまで知っていて、どこまで観えていたか」の違いに過ぎないと言える。
だから、判断基準が違う。そして、振る舞いや決断が違う。


結果的には、読売新聞が言うところの「ヒューマニズムに満ちた親米派」のほうが、「ファナティックな軍国主義者」よりもたくさんの米国人を殺したことになる。
アメリカがどんな国か、沢山の友人が居るほどに熟知し、であるがゆえに、最後まで死闘を繰り広げる。
この悲劇。
そして、「ヒューマニズムに満ちた親米派」も「ファナティックな軍国主義者」同様、バンザイ突撃で死んでいく。


ヒューマニズムに満ちた親米派」だの「ファナティックな軍国主義者」だのとラベル貼りして、判ったような気になることほど、この映画の主題に反することは無い。
みな、同じ人類。ただ知っていることや、観えている範囲が違うだけ。
もし、無知な人間が少なかったならば。
異文化に肌で触れ、その実際を体感した人間が、たくさん居たならば。
伝聞や教えられたことと、自分の五感で体験した真実とを、きちんと区別できる人間が、たくさん居たならば。
そして、ひととして、自分個人として、「ほんとの自分の正義」をこころ深く問い続ける人間が、たくさん居たならば。
・・・戦争という悲劇が避けられるとしたら、そこに可能性があるのではないだろうか。
だらしなく見えたパン屋の主人が、実はいちばんのヒーロー。そこにあの映画の真骨頂があると想った。


話はぶっ飛んで。
だから、舞浜が僕たち一般的な日本人に、生の異文化に触れる機会を創ってくれている事はとても貴重だと想ってます。
ミゲルズ・エルドラド・キャンティーナでメキシコ音楽に触れ、ユカタン・ベースキャンプグリルでキューバ音楽に触れ。さらにその先、なるべく生のメキシコ文化・キューバ文化そのものに触れ、飛び込む体験をしていきたいな。
そこから体験的に学んだものは、有形無形とも、とても大きい。


もひとつ話がぶっ飛んで。
「環境は苛酷でも、自分の運命は自分で左右できる」ことを、人生をもって実証してくれたひとびとに、深く感謝をささげます。
ジェームス・ブラウンは、そんな偉人の一人。
第二次世界大戦というあまりにも悲惨な時代を経て。以降この60年強は、「自分の運命を自分で左右できる」ひとびとが飛躍的に多くなった時代だと言えるのかも。そして、「奪い合いは地球の破滅を招き、創造し与え合うことこそが豊かさを生む」ことがはっきり観えてきた時代だと言えるのかも。