おカネ儲けは いけないこと→素晴らしいこと→当たり前のこと

木村剛さんが、おカネ儲けと罪悪感の歴史を紹介されてます。

 アリストテレスは、「等しいこと」が「正義」であると説いた。「等しいこと」とは、交換の際に等しい価値のものを交換するということ。利得も損失も発生しないこととなる。「利得を生むような交易は正義ではない」のだから、「カネ儲けは悪」であった。
 こうした考え方の下では、おカネに対する利子も認められない。利子を生むとなれば「等しいこと=正義」に反するからだ。プラトンも、利子の支払いや取り立てが社会的連帯を傷つけ、ポリスの秩序を破壊する虞があるという理由で、利子の正当性を否定した。

時代を下って。
イスラム教も、利子をとってはいけないと教えているようですね。
ただ面白いのは・・・イスラム国家の歴史を、ここ数カ月、さらさらっと調べてるんですが・・・イスラム帝国からオスマントルコに至るまで、政治や軍事は異教徒に差し出させた奴隷を改宗・英才教育して任せ、どうやら市民は商業を中心とした実業に精を出していたっぽいんです。
オスマントルコの王族なんて、あらかた奴隷の血。だって奥さんが奴隷ですから。エジプトには、奴隷による王朝なんてのもあるんですよ!
・・・そもそも、奴隷と呼ぶのが適切なのかどうか。子供を召し上げられたキリスト教徒にしてみれば「奴隷にとられた」なんでしょうね。でも、イスラム教徒からみれば、野蛮で貧しい環境から救いあげ、高度な教育を施して、指導的立場に立ってもらう・・・「崇高な救済行為」だと認識していたかもなぁ。


ちと話がそれました。交易によって、危険と労力と才覚の対価を得る。これは賞賛すべき生業としてイスラム世界では扱われていたように観えます。


そして大航海時代には、たぶんヨーロッパでも。
ただし、自分が汗をかくわけではなく、出資して配当を得るだけってのは、「ベニスの商人」みたいに、必要悪として忌み嫌われていたのかも。


やがて。資本主義の誕生です。

プロテスタンティズムとは、宗教改革後に、イギリス、ネーデルランド、フランス、アメリカなどに普及した宗派で、  厳格な規律と禁欲で知られている。旧来の商人たちの暴利は倫理的に最大の悪事とみなされるため、商業や商人は徹底的に敵視された。一見すると、カネ儲けと最も縁遠い人たちである。
 ところが歴史とは不思議なもので、こうしたプロテスタンティズムが盛んであった地域から「近代資本主義」が生まれている。禁欲的プロテスタントたちは、隣人たちが本当に必要としている財貨を生産して市場に出す結果として、適正な利潤を手に入れることは、貪慾の罪ではなく、神の聖意にかなう隣人愛の実践であると認識したのだ。
お客さまが求めるものをお客さまに提供する。その隣人愛を実践する結果として、利潤が生まれるのであれば、その利潤は称えられるべき隣人愛の成果とみなされる。
(中略)
その結果、「貨幣の獲得は――それが合法的に行われるかぎり――近代の経済組織の中では、職業における有能さの結果であり、現われ」(マックス・ウェーバー)と捉えられるようになっていく。
 近代以前は、利潤の追求は悪いことになっていた。近代からは、利潤の追求は素晴らしいことに変わっていく。

パラダイム変換が起きたわけですね。
ところが。
禁欲的プロテスタントたちが居なくなった後。隣人愛の実践であることは忘れ去られて、「おカネ儲けは当たり前」という世界になってしまった・・・と剛さんは観ています。
「おカネ儲けは素晴らしいこと」という倫理評価だけが残って、「なぜ、素晴らしいのか」という部分が、忘れ去られてしまった。

いまわれわれが必要としているのは、「おカネ儲けは当たり前」というパラダイムから、「隣人愛の実践でなければ正しいおカネ儲けではない」という原点への回帰なのかもしれない。

人間って、倫理観の拠って来たる所を観ず、「正しいとされてるから正しい、悪いとされてるから悪い」で判断停止をしてしまいがち。
判断停止は、たくさんの悲劇を生みます。
「お金儲けは悪」とされてた時代には、ユダヤ人が差別され。
「お金儲けは正しい」で突き進むと、隣人愛がないがしろにされる。


判断は、刷り込まれた思考でするのではなく。
なにがほんとに大切なのか。なにを素晴らしいと感じ、なにを喜び、なにを哀しみ、なにを慈しむのか。
自身の感覚・こころに拠って立ち、正直に素直に掘り下げていくことが大切。
するといずれ、普遍につながる。
私はそう観ています。


コメント欄に書いたように、前記事で紹介した稲盛和夫さんも、自身のこころに正直であったからこそ、そしてほんとに大切なものを見据え、とことん大切にされたからこそ、幸福と充実を味わわれた。素晴らしい業績を納められた。そう言えるのではないでしょうか。