「肩書へのこだわり」への抑圧

いや、空白さんが見せてくれた鏡から、気づいたことがひとつあります。


これまで2年半、たぶん1000個以上の記事を書いてきて。
ぼくが準トレーナーであるってことは、これまで数回(たしか4回)、ごくさらっとあいまいに触れただけだった。


でね。
これって不自然だったんじゃないかなぁ。今回そう想った。むしろがんがんと自己PRするのが、自然だったんじゃなかろうかって。


それでいま飯を食ってるわけじゃないんだけれど、でも、俺の生き方そのものが「トレーナー」なんだよね、どうしようもなく。
そこに触れないのって、フェアじゃないよね。
だから、誤解や反発を招いちゃうんだよな。


これまたひとつ、自然の法則があって。
「想い描くと、具現化する力が働く」
夢であっても、不安であっても。


僕には不安があったんです。だから、トレーナーに関する記事を書くことを抑圧していた。
どんな不安か。

  • 「トレーナー」という肩書を前面に出すと、相手が身構えて、壁が出来てしまうんじゃないか
  • 「トレーナー」として生きていく才覚が、僕にはないんじゃないか
  • 「トレーナー」という手法そのものが、簡単には理解してもらえないんじゃないか

この不安が、僕の深い望みと一致してれば、問題は表面化しないんだけれど。
僕自身は「トレーナー」が、もう生き方になっちゃってる。だから、望みにしたがって生きるうち、不安が築いた防波堤と、現実とが衝突しちゃう。
たとえば。
「実は、専門家なんだ」と明かさなければフェアじゃない状況を招いちゃう(望みに従って生きる)。けれど、最小限な説明しかしない(不安が招いた防波堤を、最小限だけ崩す)。
抑圧して隠してるなにかがある・・・ってうさんくささが、読み手に感知される。
・・・かくして、不安は見事に具現化しちゃうわけです。


では、どうするか。
深い望みをまっすぐに観る。で、夢を描く。

  • 「トレーナー」というスキルと、ひとりのひととしての自分が、自然に融合してる
  • 「トレーナー」として生きていく
  • 「トレーナー」という手法を、たくさんのひとに知ってもらう

ってなわけで。
こういう方向に進んでいきます。