枕元にあった本を、ぱっと開いたら、このページでした。

それは、毎日一度か二度、森のなかへ出かけていく小さな少年の物語です。父親は心配になります。なんだって少年は毎日毎日、森のなかへ行くのだろう?そこである日、少年に聞きます。「どうして、そんなに森へ行くんだね?」と。すると少年は答えます。「神さまのそばにいたいから」
「そうか」父親は、ほっとして言います。「それなら森へ行かなくったっていいんだよ。神さまは、どこにでもおられる。森のなかでもほかの場所でも、神さまは変わらない」
「そうだね、お父さん」と少年は微笑みます。「でも、森のなかだとぼくが変わるんだ」
ニール・ドナルド・ウォルシュ著 「新しき啓示」 P.168 ISBN:4763194828

これで、ぼやっと見えかけていた答えを、はっきりと得ました!


実は数日前に、友人、ねこにんさんのこんな記事を読んで。
僕のこころに、問いが浮かんでいたんです。

自分がテーマパークに遊びに行くより

自然の山や海が なぜ好きなのかということだ。

自然には 「感動」があるからだ、と わかった。



あるがままで、感動させる。

感動させようとして、では無く。

生きる姿で。
So-net blog:☆☆猫茶園☆☆:感動させるということについて

ふむふむ。
なるほど自然には、そんな「感動」がある。
上高地、とっても素敵。じーんと来る。


けれど、今の僕は、上高地よりもディズニーシーに魅力を感じる。
なぜだろう。


端的に言うと。
上高地で感じる「じーん」を、もはやどこででも感じられるから。
そして、その先にある、ひととひととが創り出す「じーん」を、味わうことができるから。


テーマパークって、大自然よりもむしろ、絵画・彫刻・博物館・小説・映画・写真・演劇・コンサート・街・・・といったものと比べるべき存在なんだと想う。生きた原寸大の立体絵画。


上高地に行く。「じーん」とする。写真を撮る。
その写真に触れたひとが、自分の内にある自然体験を呼び起こされ、「じーん」とする。
音楽にする。演劇にする。彫刻にする。
たくさんのひとびとと、ともに体験する。「じーん」が共鳴しあう。


ひとの営みすべて、原点はここなんじゃなかろうか。

少年はとても賢いね。その物語は、毎日、ほんのひとときでも手を止めて何もせずにいれば、神の存在を感じられるだろうと教えている。
父親も賢い。父親は、森へ行く必要が無いと知っている。その物語はわたしたちに、自分の行くところへ森をもっていけるようになれば、立派な人生が送れることを教えている。
ニール・ドナルド・ウォルシュ著 「新しき啓示」 P.168 ISBN:4763194828