基準

  • センサーの感度

多くの機械には、センサーが組み込まれている。
圧力を検知したり、反射光を検知したり、動作角度を検知したり、速度を検知したり、電圧を検知したり・・・


さて。センサーの感度は、鋭いほうがいい・・・・・って想いますか?
感度が鋭すぎても、鈍すぎても、誤動作する。
たとえば、コンベアのある地点に、ものが来たか来ないかを、反射光を見るセンサーで検知したい時。
感度が鈍すぎると、ものが来たのに無いと誤判断してしまう。
感度が鋭すぎると、ちょっとした乱反射を拾って、ものが無いのに有ると誤判断してしまう。


この場合、「いい」って何?「誤」動作って何?


「実現したい動作」が、まず、明確にあって。これが基準になる。
その通りの動作が「正」しく、そうじゃない動作は「誤」り。
「正」しい動作を安定して実現するのが「いい」感度調整。「誤」動作を発生するのが「わるい」感度調整。


「実現したい動作」が、明確に無ければ、
どの感度が、どんな施策が、どんな設計が、どんな調整が、「いい」のか「正」しいのか「わるい」のか「誤」ってるのか、も無い。

  • 他人の評価に振り回されるひと

大切な友人、天然さんの記事から。

「トロイ」

「鈍い」

「今日は冴えてるね。」

「そんな、敏感な感覚(視覚・聴覚・味覚)持ってるとは思えない。」

「そんな事知っていたの?」

「そんな事も知らないの?」

この言葉を聞くたびに、

「私ってそんなに何にも出来ない人間なんだ。」

と思って落込む。
So-net blog:花詰まり:2006-05-25

天然さんが、何にも出来ない人間なのかどうかは、感度の鋭い鈍い・知識の多い少ないでは判定できない。
「実現しようとしたことが、現実になったか・ならなかったか」でのみ、判定できる。
・・・ですよね。


なのに天然さんは、感度が鋭いと言われては落ち込み、鈍いと言われては落ち込む。
そしてその時、現実がどうなっているのかには、一切気持ちが行っていない。


「実現したい結果」を明確に持たない。見ていない。
だから、どの感度が「いい」のか、「わるい」のか、見えない。見ていない。
なにが出来ていて、なにが出来ていないのかが、見えない。見ていない。


「私はこれを実現したい」って宣言しない限り、いつまでもどこまでも、いまとおんなじ。
もう何度も何度も言っていて、いい加減言うのも嫌になっているんだけれど。
天然さんはいつも「わかった」と言う。でも、宣言しない。
京都に行って、おいしいものを食べるよりも大切なことがあるとわかった、でも、何を大切にするのか宣言しない。
うちなるイルカにまかせるって、どういうことだかわかった。でも、うちなるイルカが今、なにを望んでいるのか言葉にしない。

  • ほんとうにたいせつなことって、なんだろう

「こんなことも出来ないようなヤツと一緒に舞台を造りたくない。」

と思われるのではないかと不安。
So-net blog:花詰まり:2006-05-23

ふぅん、思い描いてる舞台が完成するか否か、は不安じゃないんだ。
天然さんの人生にとっては、
「私って何でもできる人間なんだ」と思えることのほうが、
「世界がより素敵になっていく」ことよりも大切みたいだね。


・・・だから、「私はこれを実現したい」って宣言しないんだ。
宣言して、出来なかったら、「私は何でもできる人間じゃない」ってことに直面しちゃうもんね。


僕はこう想ってる。
僕自身が、「なんにもできない人」だったとしても、いいじゃないか。
夢見た素敵さが、現実になるならば。「世界がより素敵になっていく」ならば。
たとえその実現に、僕自身が関与できなかったとしても。